最悪な気分で迎えかけた週末は、東と南風原のおかげで随分と楽しく過ごすことが出来た。
 日付を跨いで二人と過ごしたこともあり、落ち込む暇なんてほとんどなく、倒れるようにして布団に入った。
 騒ぎ疲れた分、夢を見る余裕もなくぐっすりと眠った週明け。
 この週末、一度として開けなかった鞄の中で眠っていた課題を東と顔を突き合わせ必死で解いていく。
 時間との戦う二人の下に、影が落ちるのは始業の鐘が鳴る直前。
 自然と同じタイミングで見上げた先、時間ぎりぎりにやってきた滝田の穏やかな笑み。

「おはよう」
「たっきー、おはよー」
「おはよ。今日、あいら来てるよ」
「……そう」

 忘れていたわけではなかったが、憂鬱な気持ちが戻ってくる。ノートに添えていた手に思わず握ってしまった。
 同じ屋根の下にいることに緊張してる。
 ここから何枚も壁を隔てているというのに。
それでもちゃんと向き合いたい。
 このまま気まずいままで終わらせたくない。
 だからこそ、今日が大事なのだ。

「ちゃんと、会いに行くよ」

 滝田を見上げて決意表明。
 自分を奮わせるその言葉を彼はただ「そう」とだけ。
 爽やかに笑って応えてくれた。

 固めた決意が崩れる前に。
 行動するなら早い方が良い。
 授業合間の十分休み。
頭で考えるよりも勝手に足が三組へと向かっていた。
 前の時間は移動教室だったらしく、教室にいる生徒は半分程。その中から見知った友人を探し、手を挙げる。

「南風原」
「なに、にっしー?」
「なんで分かんだよ」
「そりゃあ、昨日の今日だし? あいつならさっき便所行った」
「そっか、ありがと」
「おー。にっしーが帰ってくるまでおれの課題埋めてろよ」
「単にやりたくないだけだろ」

 机の上に出された現代文の副教材を捲りながら、その内容をチェックしておく。
 そうこうしている間にたった十分の休み時間は過ぎ去り鳴る予鈴。

「……また、後で来る」
「いいのか?」
「来てるんだったらそのうち捕まるだろうし」
「だな」

 後ろ髪が引かれる想いで三組を後にする。
 遅刻するわけにもいかないと足早に廊下を歩く。その最中。こちらにやってくる人影。

「……仁科」

 クラスメイトと連れだって歩くその光景に、胸がチリチリ痛む。彼の隣に、自分以外がいることに違和感を覚える。
 仁科にだって仁科なりの人付き合いがあるのは承知しているけれど、こんな時ですら見境なく嫉妬する自分が浅ましい。
 目の前にいるのに、隣に立つことが出来ない。
 現に視界に入っている筈なのに、目を合そうとしない。
 こうなることは予想していたが、想像と現実ではこんなにも痛みが違う。
 本人を目の前にすると、心臓を掴まれたように動けなくなる。出そうとした声も、手も震えていて、この間の衝撃を引き摺っていることを自覚した。
 退路を塞いでもう一度「仁科」と呼びかける。
 ようやく視線を合わせた途端、眼鏡の奥で目を細めた。
 以前はなかったその態度の違いにまた心臓が軋んだ。
 委縮する真中の態度に眉を上げ、いつもの笑顔を貼り付ける仁科。その変化をまざまざと見せつける。優等生のようなその笑顔が、今は見たくなかった。

「……おはよ」
「風邪って聞いたけど」
「もう平気。それより本鈴鳴るよ。早く戻りな」

 まるで一線引かれたような対応に自然と唇を噛む。

「でも俺、仁科に話があるんだけど」
「また後でね。次、地学だろ、先生来るの早いんだから急ぎなよ」

 タイミングよく鳴る本鈴と、慌てて教室に駆け込む生徒と肩がぶつかる。その人の波に乗るように仁科からも背を向けられ慌てて腰のベルトを掴む。
 肩越しに向けられる視線の温度があの日を思い出させる。

「……何?」
「昼は、どうすんの」
「行くよ。今日は購買だから遅くなるけど」
「……そっか」

 また後でね。
 穏やかな笑みに頷くことしか出来なかった。
 この間のことなんてなかったかのように表面上は変わりない。けれど、確実に変わってしまった関係を実感する。

「仁科ァ、ノート見せてぇ」
「なにそれ、嫌味?」

 自分以外に笑いかける仁科の横顔にまた胸が騒いだ。
 少なくとも、先週まではべたべたに甘やかされていたように思う。あの笑顔以上の優しさを向けられていた気がする。
 彼なりの好意の表れだったのだと、今更ながらに自覚した。
 授業前の喧騒から静寂に変わる境目の時間。
 自分の教室までの短い距離を歩きながら、自分だけが取り残されている気がしてならない。

 気持ちも、時間も自分だけが、後ろを向いて動けない。





 昼には来ると言っていたが息を吸うように嘘を吐く男の言葉を信用してはいけないような気がして、休み時間の度に三組へと足を運んだ。
 結局会えたのは朝の一回だけで、それ以外は全てすれ違ってばかりだった。
 昼休みに突入した直後にダメもとで三組へと行ったが、やっぱり仁科の姿はなかった。
 ここで会えたら襟首掴んで他の所に移動して問い詰めてやる。洗いざらい吐かせてやるんだと決意しても、ぽつねんと教室の真ん中で不安と不満を持て余す自分に掛けられる声はない。机の上の弁当に溜息をぶつけるだけだった。
 デザートが欲しい気分、と滝田の後を着いて行った南風原と東もそろそろ買い物を終える頃。
 早く戻ってこないだろうか。
 飽和しきったこの感情をとにかく誤魔化すか昇華したくてたまらない。
 頬杖を突き天井のひじきのような模様を数えながら、暇な時間を持て余す。

「まぁなかさ〜ん、お待たせぇ」
「あれ、あいらまだ来てないんだ?」

 騒がしい足音と共にようやく現れた友人一行。
 その喧騒にほっとしながら「遅い」と不満を垂れ流す。

「さっき呼び出されてたから、それでじゃねえ?」
「え、誰!? 女子?」

 テンションを上げる滝田に対し南風原は「そんなわけねーじゃん」と冷静。あんな陰険、と続く言葉は敢えて拾わないことにした。

「一週間も休んだんだし、そのことだろ?」
「じゃあ相手は担任だね」
「わかんないよ、女は職員室にもわんさかいるんだから」
「あいつ、年増に興味ねーべ?」

 一週間の休みが本当に風邪でも仮病でも、仁科なら上手く取り繕うのだろう。これだから優等生は良いよな、と問題児らは賑やかに言葉を交わしながら机の上に弁当を広げていく。
 今日も隣の席は空いたままの食事の始まりに気分も下降。

「真中、今日あいらと喋った?」
「あいさつくらいはした、かな」

 いつ訪ねても姿を眩ませる。
 一日目とはいえ、こうも見つけるのが困難となればさすがに避けられていることにも気付く。
 同じクラスである南風原もなにか覚えはあるのだろう。真中の言葉の奥を見透かすように舌打ちが漏れる。

「……あいつに同じこと聞いたら会ってないって言ってたけど?」

 箸を噛む唇から洩れる残酷な音節の決定打。
 そうまでして会いたくないのか。
 第三者からの決定的な言葉に横っ面を殴られた気分に陥る。
 身体から力が抜けて、箸を持つ手の動きも鈍くなる。

「まぁ、あいらの気持ちも分からなくはないけどねぇ」
「はぁ? どういうことだよ」
「みぃ、ちょっと荒ぶりすぎじゃない?」
「うん、そうな、東。悪いけどちょっと黙って」

 仁科の態度が、彼の中のなにかに触れたのだろう。
 東の縋るような言葉を振り払い、憤りを収めるどころ滝田に食って掛かる。
 
「なんか知ってんの、たっきー」

 下から沸き起こるような。低温の怒りを抑えているような。
 努めて冷静でいようとする南風原の様子に心臓が逸る。
 彼らまで仲違いする必要はないのだから。

「知ってるっつーか、単に俺の想像でしかないけどさ。まぁ、幼馴染としてあいらの気持ちも分からなくはないかなぁって」
「だから、それが何かって聞いてんだろ」
「それを俺が言って良いのかどうかだろ。ここは当事者に、」

 尻すぼみになる言葉の代わりに、真中へと注がれる視線。
 ごめん、どうしよう、様々な感情が読み取れる複雑な視線に思わず苦笑が漏れた。
 その光景をそう思ったのだろう。南風原の口から洩れる深く長い溜息が広い教室に谺する。

「ちょっと、今から直に聞いて来るわ」
「は、南風原がそんなことする必要ないだろ」
「そうだとしても!」
「みぃ!?」
「スッキリしねぇんだよ、こっちは。揃いも揃ってウジウジしやがって、いい加減しろよ! 巻き込みたくねぇって言うなら見えねえとこでやれ!」

 箸を叩きつけ、捲し立てる勢いで紡がれる言葉に唖然とする。胸につかえていたのは自分だけではなかった。
 そのことに申し訳ない気持ちになれば「ほら、それ」とさらに指摘される。

「真中、オレたち言ったじゃん。抱え込みすぎないでよって」
「だから選べよ、真中。今、ここで何があったかちゃんと言うか、仁科に説明させるか」

 後者なら連れてきてやるから。
 鼻息荒く告げる南風原は、これ以上の隠し事を許してくれそうにない。

「先に聞くけど、ホモってこと以上に言い辛いことあんの?」
「……正確には違うし」
「事実としては一緒だろーが」
「はいはい。分かったから、落ち着こう」

 南風原との間に割って入り冷静に対処してくれる滝田の存在がこんなにもありがたいとは思わなかった。
 パンの袋を開けて一人黙々と食事を始める。滝田のペースに毒気を抜かれたのか南風原もそれに素直にそれに倣い、置いた箸を持ち直す。
 
「言い辛いなら俺が言うけど」

 完全に状況を把握しているわけではないけど。
 無理はしなくていいよ、と甘やかされる。
 
「まぁ第三者の意見を聞いてさ、一度状況を整理する必要もあると思うよ。あと俺たちに相談するとか。ちなみに俺も相談もされなかったことと泊りに行けなかったこと恨んでますからね」
「……部活だったじゃん」
「まぁ、冗談だけどさ」

 悪びれなく告げる滝田は、パンを牛乳で流しながら事実と想像を組み合わせていく。
 
「俺もあいらん家に泊まってたしね。あいつもこの間の真中みたい感じだったよ。ただどう聞いても『たっきーには関係ないじゃん』の一点張りだったんだけどね。冗談で真中に振られたとか別れたとかってからかっても笑ってばっかりでさ」
「……なんで仁科が俺を好きなこと前提なんだよ」
「駄々漏れの状況で気付かないと思う?」
「そもそもあいつ、公言してたし」
「気付かなかったのは真中さんだけだよ」

 今更ながらに知らされる事実に頭を抱える。
 真中は人の好意に鈍すぎる。
 告げられた言葉の信憑性が増す。
 
「で、あいつなんて言ってたんだよ?」
「俺がそんなヘマするわけないじゃんって。まぁ、あいらがそう言う時は大抵ヘマしてるからね」

 肩を竦めて苦笑する。
 幼馴染はなんでもお見通しだ。

「珍しいな」
「でしょ? あと、これは鹿子からきいたんだけど、真中、女の子紹介されたんだって?」
「え? 喧嘩の原因ってもしかしてそれ?」
「嫉妬じゃん」

 確認する言葉に頷くと「心狭ぇ」と南風原の呟き。
 
「本当に切欠になったってだけで、本題はまた違うっていうか」
「つっても、たかだか嫉妬で学校休むようなタマかよ。それ以外に何やらかしたんだよ、あのメガネ」

 なぁ、と尋ねかける言葉に週末の出来事を思い出し、言葉を選びどう説明しようかと考えあぐねる。助けを求めて解説役の滝田に視線を送るも彼は口元を拭いながら「もしかしてだけど、」と不穏な一言を口にする。

「あいら、手出した?」
「はぁ!?」
「え、なに? ヤったってこと?」

 明け透けな言葉に思わず顔を覆いたくなるのは当事者だからだろう。その言葉の意味を理解した南風原は、途端に気を昂ぶらせる。弁当もそのままに立ち上がるとそのまま出口へと向かう。

「ちょっと、ちょっと! どこ行く気!?」
「仁科んとこに決まってんだろ」
「喧嘩はダメだってば!」
「うるせーな、怒ってねえよ」
「怒ったみなみは大抵そう言ってるんだよ!」
「待って南風原、未遂、未遂だから!」

 先回りして進路を塞いでも南風原は強行突破する気満々だ。
 事実を話して引き留め、宥める。歩みを止めた猛獣は大人しく席に戻るが、興奮は冷めぬまま。

「……ま、仁科が真中を避ける理由は納得した。おれなら舌噛んでしねっていうし」
「でも、実際はなんともなかったし」
「未遂の時点でなんともねぇわけねーだろ」

 確かに南風原の言う通りではある。
 だがそれは100%仁科が悪いというわけでもない。
 真中にも非はある。その事実は変わりない。
 あの日、仁科の家でもっと粘るべきだったのだ。
 あれ以上嫌われたくないと及び腰になったから、今、こんなにも拗れているのだ。一時の感情に押し負けずにいたら、今頃はいつも通り笑っていたかもしれない。状況は変わっていたかもしれない。

「俺の中途半端さが招いたことなんだよ。仁科にも言われたんだ、半端に優しくすんなって。傷つけるだけだって」

 中途半端に優しくしたことがいけなかった。
 中途半端な覚悟で踏み込んだのがいけなかった。
 好きなら好きでもっと一途にいればよかった。
 嫌われたくなくて、自身もなくて、ただただ仁科の良く想われたくて見栄を張っていただけ。
 ぽつぽつと、仁科に言われた言葉を解抓む。
 図星だっただけに、自分で吐き出した言葉は乾いてもいない傷に刺さっていく。
 言葉数が増えるに連れ視線はどんどん下がっていく。
 皆の顔が上げるのが怖い。目を合わせることが怖い。
 膝の上に置いた拳が震えているのが見えた。
 掌に食い込む爪の痛みが夢ではないと訴える。
 夢だったらどんなに良いか。
思い起こすだけで目頭が自然と熱くなる。
震える言葉に唇を噛むのとほぼ同時、

「そんなことねーよ」

 頭の上に重み。
 ぶっきらぼうな口調ではあったが、頭の上を撫でていく手付きは優しい。

「真中のそれは今にはじまったことじゃねーだろ」
「そうだよ。オレらのことが好きでそうしてくれてることくらいオレにだって分かるし」
「だってよ。真中のこと好きなのあいらだけじゃなんだよ」

 南風原の言葉に東と滝田も続く。
 頭に置かれる手が増やされどんどん重くなる。

「元々真中が落ち込む必要はなんだって。あいらが勝手に嫉妬して暴走してるだけだろ」
「一概にはそうとも」
「そういうことにしておけよ」

 十分に頭を撫で回した南風原の言葉からすっかり棘は抜けていた。事態を把握したことが功をそうしたのか「教えてくれて、サンキュ」と告げる。

「一人で解決しようとするの禁止」
「……はい」
「頻繁に相談すること」
「はい」
「分かれば良いんだよ、分かれば」

 さらりとそんなことを言える。彼のそういったところが大人びても見えて羨ましい。カッコいい。眩しい。

「とにかく、あいら捕まえて話さないとな」
「……ん」
「じゃあ、まずは飯食っちゃいな」
「そうする」

 ほとんど手つかずのままの弁当を差し出され、頑張れ、とばかりにお茶を添えられた。
 落ち込んでなんている暇はないけれど、人の優しさに涙腺が壊れそう。無理やり作った笑顔だったけど、不思議と気分は浮上して、新たな決意を固めることが出来た。

「ねー、みなみぃ。次の授業、何?」
「情報」
「じゃあ、辞書貸して」
「いいけど、その代わり放課後付き合えよ」
「いいよ〜」

 別れ際。
 事情を知っても尚いつも通りに振る舞う南風原が、誰よりもたくましく見えたのは本人には内緒だ。


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