結局寝付いたのは朝方。目覚まし時計と夏の気配を孕む太陽に叩き起こされた。
 寝起きは悪くない方だが、太陽の光が目に痛い。
 浅い眠りの中、夢にまで現れた昨日の出来事。
 眠っていても脳は処理しきれなかっただろう。
 諸悪の根源である携帯は昨日から放置したまま。
 ラインの通知数は三桁を越えていて、それを確認する気にはなれない。全て自分で蒔いた種だと分かっているが。彼女に対しては申し訳ない気持ちがないわけではない。
 いずれどうにかしなくては、と思いつつ未だにずるずるとそのままだ。
 寝不足でぼうっとする頭のせいか胸の痛みは少し和らいだ気がするが、あの出来事は夢ではない。足が重い。たかだか十数分の道であるのにも関わらず、校門が遠い。
 それでいて背後の音に過敏になっているのだから、重症だ。
 素通りしていく自転車に安堵しながら神経をすり減らしていることを自覚する。ようやく玄関に辿り着く頃には早くも疲れに襲われた。

「まぁなか、おはよう〜」
「うわっ」

 ため息が零れた瞬間。狙ったように声を掛けられた。
 油断していたところに肩を押されバランスを崩した身体はそのまま前へ。目の前の下駄箱に強かに額を打ち付けた。

「ご、ご老体! どうされた!」
「東のせいだろ」
「押したのはオレ、でも半分くらいはボーっとしてた真中のせいでしょ。失礼しちゃうわぁ。でもごめんね!」

 可愛くウィンクしたところで、と思いつつも許してしまうのが彼の人徳がなせる業。

「今日は一人?」
「みなみなら駐輪場。たっきーもさっき入って来てたから一緒に来ると思うよ」
「そっか」

 なにげなく尋ねてことに、ふたつもみっつも付け足して返してくれる。いつもなら仁科がいるかも、と期待して待つところだが昨日の今日では顔も会わせ辛い。
 放課後、いや、せめて昼までにどうにか心の準備をしておきたい。

「先行ってる」
「うん……?」

 無駄な宣言に首を傾げる東の反応に墓穴を掘りかけていることに気付く。上履きサンダルを引っ掛けてそそくさと背を向けた。
 コンディションも状況も良いとは言えない。
 昨日の出来事を南風原が知ったら、友情に熱い男である彼がきっと首を突っ込んでくるに違いない。 
 自分で蒔いた種だから。
 言葉の代わりに溜息を零して階段を踏みしめ、教室へと向かう。

「東、おはよー」

 背中で聞いた滝田の声。姿は見えないが聞き慣れた耳は嫌でも拾ってしまう。見てしまえば目が追いかけてしまう。一言でも喋ればぼろが出る気がして、振り返るよりも先に教室へと駆け込み、自分の席に着くなり、机の上に突っ伏した。
 たいした距離を走ったわけでもないのに、汗が止まらない。 こんな状態で一日を乗り切れるのか。自分でも疑問に思う。
 今日の時間割に体育がなかったことが唯一の救いだ。
 目を閉じると頭を押し付けられたように重い。
 寝ればまた、夢に見るかもしれない。
 あの泣きそうな顔に会うのかも。
 そう思うと、睡眠欲に抗いたくなる。どうせなら、笑顔がいい。都合の良い夢が見たい。
 机の横に引っ掛けたカバンの中。
 昨日と殆ど変らぬ中身にひとつだけ。仁科から借りた文庫本が紛れ込む。
 あれだけ読みたいと思っていたものなのに、今は手に取ることすら躊躇われた。
 ちゃんと読めるだろうか。返せるだろうか。
 未だに鉛を飲んだように胸は重たい。
 のろのろとカバンの中から授業の準備をするが、ペンケースが見当たらない。

「……置いてきたん、じゃん」

 それも、仁科の家に。
 あの時に彼が拾ったのはカバンだけ。
 机の上に広げていた物を掻き集めた覚えもない。
 課題のノートもきっとそのまま。
 種が増えた。悩みの種が。
 どうするべきかと鈍い回路で考える、も結局動き出せそうになかった。

「おはよ、真中」

 机の上に再び臥して間もなく。
 頭の上に僅かな重み。
 手探りでそれを退ければ、「真中尊」「数U、B」の表記。つい先ほど発生した悩みの種はたった今、解決した。

「おはよう。どうしたの、これ」
「あいらから。真中が忘れて行ったから代わりに届けてって」
「仁科は?」
「休むって。熱あるんだってさ」

 珍しいよな、なんて言いながら手渡したばかりのノートを奪って、ぱらぱらと中身に目を通す。

「……ふぅん」
「心配?」
「なんでそうなるんだよ」
「そりゃあ、真中の愛しのあいらだからだろ?」

 言ってろよ、と。いつものように悪態を吐いて顔を背ける。
 これが単なる片想いだったら照れるだけで終わるのに。今日はそうもいかなかった。
 真中の反応を楽しむ滝田はいつものように目を細める。が、不意にノートから視線を上げてまじまじと顔を覗き込む。

「真中さぁ、ちょっと調子悪い?」
「……なんで?」
「顔色悪い」

 さすが、女の子のささいな変化すら見逃さない男。
 連れの体調にも気が配れる。モテる男は違うんだな、と頭の片隅で感動。それと同時に勘の良い彼に見透かされそうなことが怖かった。

「借りた本が面白くてさ。それで、寝不足」
「お肌に悪いよ。ちゃんと寝なよ」
「俺が気にしてどうすんだよ」
「東なんかつるっつるだよ?」
「中学の時からニキビ知らずだよ、東」
「うっわ、羨ましい」

 俺なんかちょう気ぃ遣ってるのに、と嘆く滝田。
 女の子にモテるための努力を怠らないらしい。
 仁科が休んだことで猶予が出来たからか。友人と会話することで気が紛れたのか少しだけ持ち直す。
 予鈴と共に東が駆け込んできたことで賑やかさが増し、気持ちは更に底上げされた。
 
 授業前に開いた数学のノート。
 最後まで解き切ることが出来なかった筈のノートは全て完成されていた。
 真中のものではない筆跡で。
 何度か消した跡がある。それを指でなぞりながらこの字の主を想う。
 知らずと、視界が歪んだ。


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