約束通り、放課後に迎えに来た仁科の姿に頬が緩む。
 そんな真中の様子を真横で見ていた滝田は「デート?」と冷やかす。
 普段であれば慌てて否定するが、すかさず肯定してしまうくらいには浮かれていた。
 買い出しや勉強を見てもらうことは頻繁にあった。
 だがそれも滝田を始め、他の友人たちも同席してのことだ。
仁科ともっと話がしたい。最近の真中は前にも増して際限なく貪欲になっていく気がしていた。
冬からこちら仁科がすごくゆるしてくれているような気がするのは決して思い込みだけではない。我儘や希望を言うと嬉しそうにしてくれるから、くすぐったくも心地よい、それが癖になってついつい素直になってしまうのだ。
 久々の仁科の家。それも、二人きりで。
 浮かれるなという方が無理な話だ。
 電車に乗ること自体、久々で切符を買うことすら新鮮に思える。
 帰宅ラッシュにはまだ早い時間帯。
 学生服とお年寄りが大半を占める車内は穏やかで、右から左へ流れていく景色。滅多に共有できない彼の景色をしっかりと目に焼き付けて他愛ない会話を続ける。

「そうだ、三組って数学どこまで進んだ?」
「数Bの四章まで」
「ノート見せて。で、ついでに教えて」
「自分でやんなよ」
「自分でやって分かんないから聞いてんだよ」

 開き直って堂々と尋ねる真中に、自然な笑顔が返される。
 いつもの、皮肉混じりのものではない。
 そんな些細な変化で嬉しくなってしまうのだから安いものだ。

 駅から歩いて十五分ほどのところに仁科の家はある。
 数えるほどしか来たことのない彼の家。

「ちょっと片付けてくる」
「ここで待ってればいい?」
「ごめん」

 ばたばたと慌ただしく二階へ向かう背中。
 玄関で待たされている間、その天井を見上げながら声が掛けられるのを待つ。
 常に人が出入りする真中家と違い、家の周囲も内側も閑散としている印象がある。
 この家に仁科以外の人間が出入りしている姿を見たことがないのもその要因かもしれない。
 下駄箱の上にうっすらと積もった埃や雑に揃えられた靴の数々。
 しっかり者の印象は強いが、家事となるとそうでもないらしい。
 ところどころ粗の見える、完璧ではない仁科の人間らしさを微笑ましく思う。
 長らく動かされた形跡のない置物達の中、家族写真が収められた写真立てだけが埃を避けられ綺麗にしてあることに気付いた。
 

「真中、いいよ」

 制服を着ているところを見れば中学生の時なのだろうか。今より幼さの残る仁科を眺めている最中に声を掛けられる。
 おじゃまします。自然と口に出る言葉に、階段の上にいる仁科は「散らかってますが」と。
 彼の生活圏である二階。
 西日の入る彼の部屋。窓を開けているとはいえ、日中の陽光を閉じ込めていたこともあり、座っているだけど汗を掻く。
 用意してもらった麦茶もグラスにびっしりと水の珠を浮かべ、テーブルへと滑り落ちていく。

「もう少ししたら空調入れるから」
「ん」

 それまでこれ食べてな、と。
 渡されたアイス。ソーダ味。
 水色の四角に齧りつき、夏の暑さが逃げていくのを待つ。

「真中が言ってた本ってこれ?」
「そう、それ!」

 本棚から抜き出された一冊。
 教科書の名作が詰め込まれたその本。
 いつぞの話のネタとして出てきた物語が懐かしく「しばらく読んでない。読みたいなあ」と何気なく漏らした言葉を拾ってくれた時のもの。
 他愛ない会話を覚えてくれたこと。
 自分のために蔵書の中から探してくれたことを嬉しく感じる。
 書店のロゴの入ったカバーの中身をぱらぱらと捲る。

「アイス、溶けてる」

 薄水色の液体が伝う手首を掴んで指摘される。
 呆れ顔の仁科と目が合った。

「どっちかにしなよ」
「あ、ごめん」
「それ、貸すんだから今じゃなくても良いでしょ」
「うん……」

 本が汚れてしまうことも気になるが、掴まれた手首にばかり意識が行く。熱いのは部屋の温度だけではない。ドキドキするのは驚いたからでもない。
 掴まれたそこからアイスのように溶けていく。
 そう錯覚するくらい相手の手を意識してしまう。
 
「窓、そろそろ閉めようか」

 気まずい空気を察してか。隣にいた人の気配がすり抜けていく。手が開けたばかりの窓を閉める。熱はまだ籠ったままだったが、それを否定する余裕はなかった。
 本を仕舞うついでに課題を聞いてしまいたい。ノートと教科書をカバンから引っ張り出しテーブルの上に積む。
 真中にとって苦手な数学は仁科の得意分野。
 頻繁に仁科を頼ってしまうのは、それだけ下心があるから。
 何もしないで丸っきり頼られるのは嫌だろうから、出来る限り設問は埋めるようにはしている。それでも基礎問題も半分を説いてしまえば行き詰まる。
 下心と関係なしに苦手な物は苦手なのだ。

「一応、手は付けたんだ」
「やれるだけのことはやったんだよ」
 ノートに残る消された筆跡。
 それをなぞり苦笑と共に「やるだけ偉いよ」と漏れる言葉。
 ささやかな物ではあるが、少しでも仁科に褒めてもらえるだけで調子に乗ってしまう。恋心だけじゃなく、単純に出来の良い仁科に褒められるとやってみて良かったという気になる。
 二日後には提出しなければならないそれを、アイスの某を齧りながらシャーペンの芯を刷り込む。
 仁科の導きもあり難問と思えた設問は、するすると解けていく。
 まるで数学が得意にでもなったと錯覚するほど。

「仁科って教え方上手いよね」
「そうかな。真中以外に教えることがまずないからなんとも」
「え?」
「だってそうでしょ」

 事実、同じ理数系クラスの南風原が仁科に教えを乞うほど行き詰ることはまずないし、滝田は大抵女子を頼る。東に至っては仁科に聞くより教師に相談した方が早いレベルだ。
 他にも頼ってくる人間は多そうだが、まず彼自身が良しとしない。

「仁科、ケチだもんな」
「言ったね? いいんだよ、テスト範囲の解説は今後なしということで」
「あ、ごめん。口が滑った」

 悪びれなく告げる真中に仁科は手元の消しカスを弾く。
 拗ねたかな、と覗き込む。向かいの男は静かに笑うだけ。穏やかなものだった。
 どんなに軽口を叩いても、大抵のことは許してくれる。
 以前の自分ならきっと嫌われることを恐れて遠慮していたが、それすら許容してくれる安心感。それがこんなに嬉しいとは思っていなかった。

「あのさ、さっきから随分鳴ってるように見えるんだけど」
「き、気のせいじゃないかなぁ」
「真中は嘘が下手だね」

 カバンの上で放置されていた携帯がチカチカと光る。
 幾度となく受信を知らせていたことに気付いてはいたが、知らない振りをしていた。この時間を邪魔されたくない。そんな思いから来るのがひとつ。
 だが、それも含めて彼にはバレているのだろう。上目遣いにチラリと様子を見てため息を吐くようにしぼり出す。

「……面倒くさくて」

 それももう一つの理由。
 仁科が眉を上げ、意外そうな顔でへぇ、と漏らす。

「珍しいね。どうかした?」
「うん、なんかちょっとしつこくて」
「……それってこの間紹介された女の子?」
「そう」
「だからやめておけって……」

 最後まで言われることはなかったが、呆れの混じるその言葉。
 あの時の忠告に従わなかったことへとバツの悪さにその目をみることが出来ない。
 
「で、実際、どうしつこいの?」
「単に価値観が違うだけって言うか。催促がひどくて」

 先日、友人を通じて知り合った女の子。
 一つ年下の、大人しくて可愛い子だからと半ば強引に押し付けられたラインのID。
 何度か廊下ですれ違ったその子は丸顔のふんわりとした雰囲気の可愛らしい女子ではあったが、些か依存度が強かった。
 頻繁にメールやラインの返信をするタイプでもない真中にとって、彼女のペースに合わせるのは少々骨が折れる。
 返信に睡眠時間を削られるのは、正直、迷惑な話だと思う。
 はっきりと言葉にすることも憚られ、なるべく既読をつけることも怖かった。
 
「……ちょっと、どうしていいか分かんなくてさ」

 しどろもどろ、告げた言葉は静かな空間にいやに響く。
 冷房の起動音に混じって浅い呼吸の音。緊張の混じるそれが自分のものだと気付く。
 緊張、している。
 だって、向かい側から伝わる空気は決して穏やかなものではないから。

「その子はさ、少なくとも真中のことを好きなんだよね?」
「え?」

 教科書の数式をペンでなぞりながら告げる。
 問うてくる言葉は冷ややかな空気を纏う。

「それは最初の時点で分かっていたことだろうし、その前提があって親しくなったわけでしょ」
「俺は好きな人がいるって言ってるよ」
「チャンスはあるって思いたいものじゃない。好きな人に優しくしてもらえれば尚更。気を持たせるようなことをしたのは真中じゃないの?」
「それは、一理、あるかもしれないけど」

 言い返そうにも、仁科の言うことにも一理ある。
 告白めいた言葉も、探りを入れる言葉も何度も受けた。
 相手の名前こそ明かすことはなかったが、もうしばらくこの片想いを楽しむのだと、彼女には伝えていた。
 同じ学年でとても仲が良い人物だということも。
 南風原の言葉を借りるなら、立ったフラグは初めの段階で折ってしまった。
 彼女の好意に気付いていながらやりとりすることも心苦しくもあったのもある。
 そうそうに諦めてくれれば、彼女だって次の恋を見つけてくれるだろう。
 平凡な自分にこんなモテ期、二度と来ないかもしれないけれど。
 今、手元にある恋を大事にしたかったのだ。

「良いだけ期待させておいて、断るなんて残酷すぎる」

 悩まなかったわけじゃない。
 それなのに、一方的に言い切られるのもおかしな話だ。

「真中はさ、人の好意に鈍すぎるね」

 教科書の数字の上をなぞる。手の動きは止まらぬまま漏らされた一言。
 声音だけ聞けば凪いだものだが、唐突に熱の消え失せた言葉に寒々しい気持ちになる。
 
「そんなこと、」
「ないって言い切れる?」
「……切れないこともないけど」
「これじゃあ宮園の時と何も変わらない」

 さらりと、言われたその一言にカチンときた。
 なぜ仁科にそこまで言われなければいけないのか。
 腹立たしくて、ふつふつと込み上げる怒りを、唇を噛んで堪える。

「一応、宮園さんの時の二の舞にならないように断ったところはあるんだけど」
「それ以前の問題のことを言ってんだよ」

 なにも分かっちゃいないよ。
 深く長い溜息と苦笑した彼は項垂れる。

「その気がないなら優しくしちゃだめなんだって」

 その優しさが真中のいいとこなんだろうけどね。
 絞り出された音が伏せた顔の下から届く。
 ああ、彼もまた恋を患うひとりなんだと、実感する。
 誰と重ねているのか。必死になるなら自分が良い。
 こんな時に少しだけ期待してしまうのは、今まで甘やかされた自尊心からくるものだろう。その言葉をそっくりそのまま返してやりたい。
 真中が仁科を好きでいることを許してくれているのに、なぜそんなことが言えるこのだろう。
 別に付き合いたいと言っているわけではないのに、ただひとりの人に一生懸命になることも本当は駄目だよと頭を叩かれたような気持ちになった。
 恨めしくて見上げる目元がきつくなる。

「……じゃあ仁科は、すきな人以外にも構ってやれるの? 余裕だな」

 別に、他にすきなひとが居てもいいから、だからこんなことを言わせないでほしい。嫌なら嫌と言ってほしい。許されるから甘えてしまうのだ。
 半ばやけくそで、自分だったらいいのにと希望を抱いたこともある。
 好奇心から告げた一言は、視界に入った苦笑から表情を奪うに値したらしい。
 温度をなくした笑顔に背筋が冷える。

「もしかしてさ、」

 この子? と、暗い携帯の画面を小突く。

「そんなわけないじゃん」

 その一瞬。泣きそうな程に歪められた表情は顔を伏せたせいですぐに見えなくなる。
 長いながい溜息を漏らした彼は冷ややかな声で告げる。
 いい加減にしてくれないかなぁ、と。
 鋭利な視線に射抜かれた。

「ねぇ、本当にさ。そうやって自分はなにも悪くないって顔して人のこと傷つけるの」
「にしな?」
「俺がその子のこと好きだって言ってたら最初から接点も持とうとしなかった? そうじゃないでしょ。そういう遠慮とか思いやりとかホントに迷惑。真中のその優しさって誰も救わないよ? ただ流されてることを優しさだって言うんだったらとんだ勘違いだ」

 口の端を持ち上げても、目元に笑みはない。
 滅多にない仁科からの攻撃的な態度に戸惑いばかりが募る。
 テーブルを越え、肩に手を置かれてもそれに反応することすら出来ず、真っ白になった思考の中、不機嫌そうな仁科の行動を目で追うことしか出来ない。
 眼鏡の奥。反らされた視線の先には、膝の上に乗っかる拳と、
 
「……時計?」

 真中の宝物。
 視線を戻しても返ってくるのは嘲笑だけ。
 
「優しい真中ならさ、このまま流されてくれる?」

 貼り付けたような「いつもどおり」の笑い方。
 その意図を尋ねる間もなく、肩に置かれた腕に力が込められ背後の床に押し倒された。
 受け身を取り間もなく後頭部を強かに打ち付けて目の前に星が飛ぶ。
 チカチカと明滅する視界の先。
 腹の上に乗っかる男の顔から笑みは消えぬままだが、それ故に恐怖が付き纏う。
 仁科なのに。
 あれだけ焦がれた状況。文字通り、夢にまで見たシチュエーションのなのにも関わらず、顎を捕らわれ視線を交えても困惑しか浮かばない。

「に、し」

 呼ぼうとした名前は最後の音を漏らす前に塞がれた。他でもない本人の唇で。
 キスされている。頭の中で分かっていても、衝撃が大きすぎて感情がついていかない。
 ドラマや小説のようにロマンチックなものでもなければ、過去の僅かな恋愛経験とも異なる状況。
 くっついて、離れて。歯列を割って舌が絡む。すべすべした感触、思考が回らず上手く息が出来ない。酸素が来ない。視界が霞むのはどうして。短く息を吐き出し、縋るものを欲しがった手が腹の上を跨ぐ脚を掻く。
 真中の反応に動きを止めた仁科。上体を起こし、胸倉に掴みかかる彼が笑う。

「もっと抵抗しなよ」

 ぼやけた視界の中なのに、歪んだ表情に胸が痛む。
 俯いたせいで良く見えない。でも、泣いているようにも思えた。
 胸の上で震える手。眼前にある黒髪を撫でるべきか。慰めるように添えた手は、勢いをつけた手に弾かれる。
  
「俺にまで流されるなよ。同情なんてするな」

 シャツの襟元に手がかかり、乱雑な手付きで引っ張られた。
 露わになった、首元に影がかかり、その後、

「―っ、いッた、い!」

 歯が、立てられた。
 鈍く痕を残す痛みに悶絶して、目の前の人物を蹴り上げる。 
 憩いよく後ろに転げて行った相手は尻もちを突きながらも壊れたように笑う。

「最初から、そうしておけば良かったんだよ」

 絞り出すように吐き出された言葉。
 腹の上から退き、腕を掴まれ引き起こされる。
 ぶつけた頭を気にしながらも一連の好意に対し弁解することも謝罪することもなく拾い上げたカバンを押し付ける。

「前から言いたかったんだけどさ。真中の誰にでも優しくするとこ、良いいとこだとは言うけどさ。たまに思うよ、どうでもいいのかなって」
「……どういうこと?」
「そのまんま。周りに興味ないんだろうなって」
「そんなことない」
「あくまで見えるってだけ」

 心外だ。
 今まで言わなかったけどね、と棘のある言い方をする仁科に背中を押され部屋の外。
 言外に帰れと言われる状況に抵抗を示す。なにも状況が呑み込めぬままだ。このまま帰る気にはなれない。

「俺にだって気持ちはあるよ」
「知ってる。真中に好きな人も、それが誰なのかだって知ってる」
「え?」
「でも無理だわ。いきなりこんなことして悪いとは思うけど」

 聞いて欲しかった弁解の言葉はあっさりと聞き流され、切り捨てられる。

「でももう確認したいとも思わないし、話す気にもなれない」
「ちょっと、仁科!?」

 一方的な拒絶を示して、目の前で戸を締められた。
 ドアノブを回しても、扉を叩いても抑えこまれているのだろう。びくともしない扉に唇を噛む。
 待って、待って。こっちには聞きたいことがいっぱいあるのに。
 歪んだ表情が泣きそうに見えたのは間違いではなかったのかもしれない。
 仁科への気持ちがはっきりとバレているのなら。さっきのキスの意味は?
 今更ながら湧いてくる言葉を聞いて欲しい。教えて欲しい。
 扉の前でしばらく粘った甲斐があってか、僅かに出来た隙間。
 食いつくように指を入れると、抵抗なく開いた先に現れた無表情。

「ごめん、さっきの渡し忘れ」

 受信ランプの煩い携帯を掌に落とされる。
 それだけ、とまた背を向ける仁科の裾を捕えて引き留める。
 分かっているだろうに「なに?」と怪訝な表情。
 今まで向けられたことのない反応に胸が痛む。

「あ、のさ」
「悪いんだけど、明日にして貰ってもいい? 今、真中の顔見るのしんどい」
「……分かった」

 そう言われてしまえば引き下がるしかなかった。
 不覚にも泣きそうになってしまい、唇を噛んで堪える。
 目を合わせることが怖くて、項垂れるしかなかった。 
 扉の梁に寄り掛かる仁科の足元はその場から動くことはなく。一応、見送ってくれることだけは分かった。

「帰り道、分かるでしょ」
「うん」

 ついさっき言われた言葉の影響で返す言葉もぎこちない。
 被害者面するなと言われたばかりだ。
 これ以上情けないところを見られたくない。
 振り返らず、顔を上げず、逃げ出すように玄関を目指した。
 知らずに噛んでいた唇に血が滲んでいることに気付いたのは、家の屋根が随分と小さくなってからのことだった。



 頭の中が真っ白でも身体は道を覚えていたらしい。
 切符の購入も電車に乗ることも淡々とこなして、無事に家へと戻った頃には門限ぎりぎりだった。
 何本か電車を逃していたらしい。
 いつもより遅い帰りに滾々と説教する母の言葉も右から左。言い訳も悪態もつかない息子の様子に気が付いたのか、次第に小言はなくなった。
 厚く切られた肉を前にしても心が動かない。
 美味い筈なのに。ゴムみたいにしか感じられなかった。
 黙々と、淡々と食事も風呂も済ませて部屋に戻っても布団の上に転がるくらいの余力しかなかった。
 もしかしたら悪い夢かもしれない。
現実逃避に思いついた考えは、鏡の前の自分が否定した。
くっきり肩に残った歯形の痣。
うっすら腫れ上がる皮膚の凹凸は、紛れもなく彼が残したものだった。
 
 天井からぶら下がる白い光を見上げながら一日の出来事を反芻。
 そういえば、この体勢でキスをされたのか、とか。
 いつから気持ちがバレていたのだろう、とか。
 その事実に気恥ずかしいどころではない。布団の上で悶絶して枕に顔を埋めても、かつての拙いアピールを思い出すだけだった。どんな想いで見ていたのだろう、と今になって思う。ラインの件ひとつ取ってもそうだ。
 仁科の想いを寄せてるくせに押し切られるまま、流されるまま、それでいて彼女の想いを無碍にしていた自分はどう見えていたのだろう。
 あのキスの意味はなんだったのだろう。
 もしかして、と期待してしまう。
 けれど、その続きを思い出す。その後言われた言葉を。
 一つひとつ、思い出すたびに胸に刺さる。
 ばくばくと心臓が音を立てるのは恐怖のせいだ。
 昔からこの瞬間が嫌で人に優しくあろう、親切でいようと決めたのに。その行為が裏目に出た。
 それも、一番嫌われたくない人に。
 拒絶された瞬間がキスをされたことよりも与えられた痛みよりも、鮮明に残っている。冷たい声音を、背中を伝った汗の温度を。泣き出しそうな表情を。

「泣きたいのは、こっちだよ」

 鼻の奥がツンとして、見上げて先の蛍光灯が幾重にもぶれる。誰も見ていなくても震える声が情けない。
 枕に顔を埋めながら、薄い布団を叩く。
 叩いた手より、とうに消えた筈の肩の傷がじくじくと痛む。
 泣いたところで、手を痛めたところで胸につかえた想いは昇華されぬまま。漠然とした不安に苛まれるだけだった。


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