まあるい空から七松先輩は一瞬姿を消すと、再びひょっこり顔を覗かせた。
「とりあえず掴まれ。一本釣りするから離すなよ」
次屋くんと私の間に一本の縄がスルスル下りてくる。ああなるほど、一本釣りってそういうことか。
二人で縄にしがみ付くと、有り得ない力でぐんと引っ張られた。
「ひゃあ!」
「おわあ!」
私ってば今日は掴んだ縄に引っ張られてばっかりだ。こりゃもう絶対に手の皮擦り剥けてるなあ。
「いけいけどんどーん!」
二人してポーンと宙に舞う。掴んでいた縄が重力と共に落下し、もちろん私も落下した。ひえええ!!
「よっと」
どす!と音がしたものの、いつまでたっても痛みはやってこない。恐る恐る目蓋を開ければ、七松先輩が姫抱きで私を受け止めていた。次屋くんに対してはノーフォロー。彼は、べちゃっ、と痛そうな音をたてて地面とコンニチハしていた。
うう、私ばっかり助かってごめんよ次屋くん…。
「七松先輩、よくここが分かりましたね」
「ああ、ぬかるみに新しい二人分の足跡があったからな! 滝から聞いて心配したんだぞー」
至近距離で見る先輩の笑顔はどこまでも温かい。数刻前まで向かい合っていた笑顔のはずなのに、もう随分久しく見ていなかったような気さえする。
「おお、よしよし。もう大丈夫だから」
「え?」
「そんなに泣くな」
言われて初めて気付いた。私はどうやら泣いていたらしい。自分に驚いて固まっていると、七松先輩は私を静かに地へ降ろした。
「怖かったなぁ」
くしゃり、私の頭を撫でる。よく知った手のひら。
先輩の全てが温かくて、自然と私の涙腺は崩壊した。
怖かった、凄く怖かった、だけどもう安心だ。みんな一緒に学園へ帰れるんだ。
「さて、三之助」
くるりと振り返って次屋くんへ視線を移し、そのまま彼のところへ歩み寄る先輩。
あ、あれ…? なんだか妙な威圧感を感じる。変だな。先輩、笑顔のままなのに。
次屋くんはといえば、何故だか熊が近付いた時並みに身体を震わせ始めた。
…アッ。
『この状況が委員長に知られたら俺、殺されるなあと思って…』
これって俗にいう"死亡フラグ"ってやつなんじゃないのか。そういえば七松先輩、ヤキモチ妬いたから私達より先に走って行ったんだった!忘れてた! その上でさっきの状況を見られたわけだからこれってかなりヤバい! かなりヤバい!! もう一回言う、かなりヤバい!!!
途端、七松先輩の合わせた両手からボキボキボキと骨を鳴らす音が飛び出してきた。
「はひっ!!」
すっかり萎縮してしまった次屋くんはまだ何も言われてないうちから土下座を開始する。
「まぁ、あれだ、三之助」
「はい…?」
「言い訳は取り敢えず三発のあとな」
七松先輩ってば笑顔でなんてこと言うんだ。いやもう笑顔が笑顔じゃない。私の時と明らかに違う、貼り付けたみたいな笑顔になってる。だって笑顔なのに青筋浮かんでる。
駄目だ、見ていられない! だって次屋くん、迷子になる以外は何も悪いことしてないのに!!
「ま、待って下さい!七松先輩!」
「んー?」
「次屋くん、いつも通り迷子になっただけですから! 怒らないで下さい!」
「へえー、なんだか抱き合ってるように見えたけど気のせいなんだー?」
あああやっぱり右から左されてるうう!!
「気のせいです!」
「へー、はー、ふーん、そうなんだー」
ボキボキボキごきんっ
「そ、それっ、それにっ、うう、次屋くん、怪我っ、うっ、怪我しててっ、」
もはや半べそ。"学園で暴君様に逆らう奴はいない"の意味を初めて知った気がする…。
「怪我?」
「そうなんです。穴に落ちる時、私を庇ってくれて、」
「・・・」
「だから、怒らないであげて下さい…っう」
先輩は少し考えこんだあと、その両手を自分の前から下げた。
「…仕方無い、今回は見逃してやる。立て三之助」
「はひ!?」
顔を上げた次屋くんも既に半べそかいていた。
良かった! 七松先輩、意外とあっさり許してくれたああ。ううう恐かったよぅ。
「帰りは迷子になるなよ」
安心したのも束の間。七松先輩はそう言って、立ち上がったばかりの次屋くんの両脇に自分の腕を差し入れた。
「!!?!?」
そのまま彼の身体を持ち上げて回転し、充分に勢いをつけてから、
「いけいけどんどーん!!」
「おぅわあああああ!!!」
その怪力をフルに使い、次屋くんを遠くの空へ向かってふっ飛ばした。まるでハンマー投げだ。
次屋くんは、見事に星になりました。
…なんて客観的に分析してる場合でもなく!
「せっ、先輩! 次屋くん飛んでっちゃったじゃないですか!」
「大丈夫! あっちの方角に滝が居るはずだ!たぶん!」
「たぶん!?」
「滝なら受け止められるだろう!受け止めたらいいな!」
最後の方はただの願望じゃないですか! あああ次屋くんも滝夜叉丸くんもどうか無事でありますように…!
「・・・」
「・・・」
二人きりになったところで静けさが訪れる。
最初は気まずくて俯いていたけれど、黙してても仕方がないので、そうっと首を上げて先輩の様子を伺ってみた。先輩は拗ねたようなジト目で私を見下ろしていた。視線が合ってから更に気まずさを増す。うひぃ居心地悪いなあ。
「…ななしはさあ」
「は…い」
「自覚が足りない」
「…え?」
自覚?
「無防備過ぎる」
ぎゅう、といつものように正面から抱き締められた。七松先輩は次屋くんよりずっと大柄だから、私の頭は彼の胸元に埋まってしまう。ちょっぴり息苦しい。
「自分がどれだけ魅力的か、お前はちっとも分かってない」
「え、あの、」
「私以外の奴にもっと警戒しろ」
「ちが…先輩、たぶんそれは勘違いです」
「勘違い?」
「次屋くんは、そんなんで私を抱き締めてたんじゃないです」
「…やっぱり抱き合ってたんじゃないか」
「う゛」
「知ってるさ、そんなの」
「へ?」
「ただ私の気が晴れない」
先輩は私の頭を撫でると、そのままの流れで私の顔を上へ向かせた。必然、至近距離で先輩と目が合う。
「ななしに触れていいのは私だけだ」
恥ずかしいことを恥ずかしげも無く言う。
まあるい綺麗な瞳。あまりの近さに彼の瞳から目を逸らせない。真っ直ぐなその視線が、脳天から背筋まで一直線に私を射抜いてくる。
この感覚、前にもあった。あれは何だったっけ…いつだったっけ…ああそうだ、二人で夕日を見たあの時だ。
当事者なのに今の状況を他人事のように考えていた、その瞬間、
「!?」
額に柔らかい感触が降って来た。
それはもう考えるまでも無く
団子屋で受けたアレと同じもので
「いいかななし」
先輩の言葉も半分上の空。顔から湯気を出してまた卒倒しそうになる。何これ何これ、あっつい! 火が出る!
「今度誰かとああいうことしたら、次は額で済まさんからな」
「は、はひ!?」
「お前が泣いて嫌がっても、私がしたいところへする。覚えとけ」
「・・・」
「駄目だ寝かさん」
意識を失いかけてフラリと後ろに傾いたら、両頬を思い切り引っ張られた。いひゃい、いひゃい!!
「ごめんらはい!はなひれ!」
「お前ちゃんと聞いてたかぁ?」
「ひいへはふ!」
「なら許す」
ぱっと手を離され、慌てて両頬を擦る。うう痛い。頬も痛いけど手のひらも剥けてて痛い。
「…あれ?」
ふと目をやれば、七松先輩は手首を負傷していた。私の頭を撫でた手とは反対側の手首。よくよく見ればかなりの大怪我だ。
「先輩、それどうしたんですか!?」
「え? ああ、なめときゃ治る、」
「診せて下さい!」
「へ?」
無理矢理に先輩の手を取って手首を眺める。血が固まって今現在は出血していないものの、場所が場所だけに当初は相当な出血量だったんだろう。傷口に沿って血の塊がびっしりと付着していた。いったいどうしたらこんなことになるんだ。
私ときたらどうしてもっと早く気付かなかったのか。手甲が黒だからパッと見て気付かなかったのかな。
学園に戻ったらすぐに消毒するべきだ。とりあえず、これ以上黴菌が入らないようにするには…ええと…ハンカチは次屋くんにあげてしまったし、他に何か…あ。
「他の布よりは清潔なはずなので」
自分の頭巾を解いて手早く先輩の手首へと巻き付けた。傷口を晒しっ放しにするよりはいいだろう、アウトドアな七松先輩のことだもの。
「ななし、なんだかいさっくんみたい」
先輩が何気なく溢した言葉にびくりと肩が跳ねた。嬉しい。けど、それを表に出しちゃいけない。これ以上七松先輩を妬かせたらあとあとヤヤコシイから。
「ありがとう!ななしはやっぱり優しいなあ!」
「先輩、どうしてそんな怪我を?」
「あ、いや、情けないんだけど…笑わない?」
「笑いませんよ」
「ここのすぐ隣に六年生の仮試験コースがあってな。最初そっちへお前らを探しに行ったんだ。んで、油断して罠に掛かった」
「えっ」
「手遅れになったら困るから、危険が多いところから探すことにしたんだが…自分が掛かるとは思ってもみなかった」
じゃあ、七松先輩は私達の為に怪我をしたのか。
「五年生のコースにいたからほっとしたぞ」
「すみません…先輩に怪我させてしまって…」
「え? 別に私が勝手に掛かったんだからななしのせいじゃないだろ」
「・・・」
「まあ何でもいいさ。お前らが無事ならそれで」
だんだん自分が情けなくなってきた。七松先輩が命懸けで私達を捜索してくれてる間、私は次屋くんと赤面した上に抱き合ってたわけで…。やっぱり七松先輩にはきちんと怒られるべきだったかもしれない。
「とにかく早く学園へ戻りましょう。傷の手当てをしないと」
「よし、迷子になるぞ!」
「…は!?」
「あ、間違えた! 私も迷子なんだ!」
い、いきなり何を言い出すんだこの人。
「迷子って…先輩、無茶苦茶で、」
「だからななしとしばらく二人なんだ!」
「はあ!?」
「じゃなかった、ななしと二人で帰り道を探すんだ!」
支離滅裂。
口から下心がだだ漏れだ。
先輩、さっき向こうの方角に滝夜叉丸くんが居るって言ったばかりじゃないか。
「先輩…」
「ん?」
「二人になりたいなら最初からそう言えばいいのに…」
いやまあ、ある種最初から言ってしまってはいるけれど。さっきまで凄く格好良かったのになんだかとても残念な人に見えてきた。
「・・・」
先輩はぷぅと頬を膨らませ、再び拗ねてみせる。
「だって…ななしときたら後輩ばっかり構うから…」
みんなばっかりズルイ、と誰よりも幼い表情で不貞腐れる。やっぱり体育委員会は後輩のみんなの方が大人だったりして。不覚にも七松先輩のその様子を、少し可愛い、なんて思ってしまった。
「…学園に戻ったら、二人で夕食しましょうか」
ご機嫌取りも兼ねてぽそりと呟いてみる。途端、先輩は目を爛々と輝かせて私を見た。
「本当か!?」
「助けてくれたお礼に奢ります」
次の瞬間、ぐるりと視界が回る。先輩が再度私を姫抱きして、みんなのところまで猛ダッシュし始めたのだ。
私からの誘いがよほど嬉しかったのだろう、花の飛びそうな笑顔を見せながら。
「…七松先輩は本当に私には甘いんですねぇ」
言葉にするつもりは無かった。が、気付いた時には口を突いて出てしまっていた。
私ってば何を言ってるんだ。独り言にしても今のはかなり恥ずかしい。
先輩は抱えた私を見下ろしてニッと笑うと、
「特別だからな!」
本日最高の笑顔をくれた。
私はもう、すぐ傍で輝くその陽だまりの温かさにアテられ過ぎてしまって
抱えられたまま、それ以上何も言えなくなってしまった。


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