「困ったねぇ…」
二人でまあるい空を見上げながら、再び途方に暮れた。
どちらも登器を持っていないということは必然、助けを待つしかない。だけど助けなんて来るかな。いくら優秀な滝夜叉丸くんでも私達が五年生の実習コースの蛸壺に落っこちてるなんて思わないんじゃないかな。かえって優秀だからこそ、五年生のコースには近付かないと思う。後輩をそう何度もこの危険区域に連れて来たりしないだろうから。
それって裏を返せば私達にも言えることであって…。万が一ここから這い出られたとしても、上は五年生用の危険な罠がうようよしてるんだろう。なんの変哲もない蛸壺に落ちただけで済んだことだって、普通に考えれば相当な奇跡だ。
ぐるぐる考えてたら気分が悪くなってきた。
「まあ、大丈夫っスよ」
目の前で次屋くんが楽天的な言葉を出す。
「実習コースなんだから永久にほっとかれたりしないでしょ。最悪死ぬこたないだろうし」
彼の落ち着きぶりに目を瞬いた。三年生なのに肝が据わってて凄いなあ。委員長譲り?
「…うん、そだね。そうだよね」
また後輩に励まされちゃった。私ってば今日、先輩らしいこと一つもしてないや。
気持ちに少し余裕が出てきたところで、ふと視界の端に赤いものが映った。
「!」
次屋くんの忍者服の左腕が赤く染まっていたのだ。
「次屋くん、怪我してるの!?」
「へ? ああ、掠り傷ですけど」
「駄目だよ、見せて!」
「えっ」
彼の腕を手に取って服を捲り、懐からハンカチを取り出して拭いたあと、折り畳んでから綺麗な面をあてて無理矢理巻き付けた。掠り傷どころなもんか、皮が剥げちゃって大惨事だ。
私だって応急処置ぐらい出来るもの、伊達にくのたましてないよ。本当は消毒するのが一番だけど、残念ながら今この状況じゃあその術は無い。けど止血するだけでもだいぶ違うと思う。
「・・・」
今にして思えば、蛸壺に落ちる瞬間、彼は私をかばったのかもしれない。だから私の下敷きになっていたし、こんなに酷い傷を負っているんだろう。だって落ちる前までは私の上に居たんだもの。
「ごめんね、ありがとう…」
「何がっすか?」
「庇ってくれたんだよね」
「あーと…そりゃ買い被りです」
「・・・」
「なぞの先輩って、なんだか保健委員みたいですよね」
「え?」
「応急処置の手際良いし、今日の不運も散々だし」
「そ、そうかなあ!?」
「なんでそこで嬉しそうにするんスか」
「へ? あっ、」
善法寺先輩に近付けたのかな、なんて不謹慎なことを思ったとは絶対言えない。
「次屋くん、助かったあとは保健室に行って、その傷みてもらってね。絶対ほっとかないでね」
「俺たぶん助からないから大丈夫です」
「え!? なんでそんなこと言うの!? 大丈夫だよ、助かるか、」
「いや、そうじゃなくて」
「なに?」
「この状況が委員長に知られたら俺、殺されるなあと思って…」
私達の間は距離にして十寸足らず。
「・・・」
「・・・」
否定出来ない。
「だっ、だだだ大丈夫だよ…だってホラ、成り行き上だしさ!」
「いやでも元を辿れば俺の方向音痴癖が原因なわけだし…」
「でっ、でっ、ででも、別に穴に落ちただけで、何かあるわけじゃ、ない、から、」
「や、だって…」
気まずそうに私から視線を外す次屋くん。顔がほんのり赤いのは、たぶん気のせいじゃない。
「現に近いし」
負けず劣らず私も恥ずかしくなってきた。冷静になって考えれば、なんだこの状況。
一度意識し始めたらもとに戻すのはなかなか難しい。普段は飄々としている彼が赤みを増していくのを目の当たりにして、私はその倍速で顔を赤らめた。死ぬほど熱い。
「ごっ、ごご、ごごめん。そっそうだよねなんでこんな、ち、近いん、だろ、ね」
頑張って距離を置こうと再び身を捩るも、それは叶わず。
「ごめ、こんな…私なんかと近い、とか…」
「へ?」
「ふ、不快にさせ、て、ごめ…」
「や、ちが…そん、な、こと、は…」
次屋くんにまで私のどもり癖が感染してしまった。もはやお互い目も合わせられない。うっかり黙ると呼吸まで聞こえてきそうな距離で、羞恥心に拍車を掛ける。
「・・・」
「・・・」
意識し過ぎてお互い何を話したらいいのか分からず、暫し沈黙する。
その時だった。
 ―ズズン―
「「!?」」
蛸壺の壁から地鳴りのような音がして、地面が重く振動する。
だけどこれは地震じゃない。揺れるリズムが一定だ。
 ―ガアァアァ―
蛸壺のすぐ近くの地上で、何かの獣が吠えている。声からしてあれは――
「…熊…」
次屋くんも私もサッと青ざめた。
蛸壺近くに熊がいる。どうしてこんなところに熊なんか…ああでもここは山奥なんだ、居ても別段不思議じゃあない。だからここは何の変哲もない普通の蛸壺だったのか! 自然の動物が落ちて怪我をしないために…!
ど、どどどっどうしよう…どうしよう!!!
泣きそうになりながら次屋くんと見つめ合っていたら、彼は黙ったまま私の口元で人差し指を立てた。
「シッ」
熊の足取りがこっちへ向かって来る。
のしりのしりと一歩ずつ踏み締めるように、だんだんと地響きが大きくなってくる。
怖い。こわいこわいこわいこわい、コワイ!!
どうか通り過ぎて…神様…!
 ―ずんっ―
すぐ傍でひときわ大きな足音がして、獣が立ち止まる気配がした。
穴の真上で雄叫びとも轟音ともつかない、低い呻きが鳴り響く。蛸壺内の空気をびりびりと振動するほどの強烈な鳴き声。
思わず背筋を伸ばし、両手で自分の口を塞いだ。こうでもしないと恐怖のあまりに叫んでしまいそうだった。
獣は嗅覚が鋭いからひょっとしたらもうバレてるのかもしれない。だけど、たとえほんの少しでも、私達がここにいることに気付いていない可能性を信じるしかない。
熊は束の間そこに居座って、ぐるぐると呻るばかりで一向に動こうとしない。
早く、早く何処かへ行ってくれ。
身体じゅう水を浴びたように冷え切って、カタカタと震えが止まらない。
目の前の次屋くんは私よりずっと平静だけれど、やっぱり少し震えていた。
 ―ズシン―
一歩、獣が踏み出す気配。
それからまた一歩、方角を変える気配。
「「・・・」」
熊は、私達の蛸壺とは別の方角へ歩き出した。
声も足音も少しずつ遠くなっていく。
「・・・」
「…ぅ」
「助かった…」
次屋くんが溜め息と同時に安堵の言葉を吐き出す。
私も一気に全身の力が抜けて、必死に口を押えていた手をだらりと下げる。急に酸素を吸い込んで軽くむせた。緊張のあまり息をするのも忘れてた。
「怖かった…」
ようやく言葉を口から吐き出して、ぼんやりと上を見た。さっきまでは怖くて上を見ることも出来なかったけれど、今はもう大丈夫。
円型の空は先程まで晴れていたはずなのに、今は曇り空。
「雨になったらちょっと厄介だなあ…」
至近距離で独り言を溢す次屋くんに目を向ければ、彼も私と同じく空を見上げていた。
雨が降ればちょっとどころではなく相当厄介だ。雨除けが出来ないこの状況じゃあ諸に体温を奪われてしまう。…風邪や肺炎程度で済めばいいけれど…もっと最悪なケースは、蛸壺の土の吸水性が悪くて大雨だった場合。完全なる水責めに遭ってしまう。
一度やって来た安堵がまた急速に遠のいていく。
不安でどうしようもない。悲しくなって俯いた。

心細い。

確かにここは五年生のコースだから、一生ここで放っとかれることは無いだろう。
だけど、五年生がこのコースをすぐに使う保証はどこにあるのか。五日後かな、それとも一週間後かな。あと何時間…ううん、何日ここでこうしてればいいんだろう。
厠にも行きたいし、お腹だって空いた。
ずっと晴れだという保証もないし、いつまた自然の猛獣が蛸壺へやって来るか分からない。
なんだか目の奥が熱くなってきた。
怖い。
帰りたい。
「!」
突然、身体が温かい熱に包まれた。
次屋くんに抱き締められたのだ。
状況を理解してから必死に言葉を探すが、私の小さな脳味噌では言葉どころか単語も話せない。
「え!? え!? 次屋く、」
「…すんません」
「え?」
「俺のせいで…」
弱々しい声。彼の頭は私の顔横にあるため、その表情は分からない。背に回された両腕は力強いものの、心なしか震えている。
私の大馬鹿者。
次屋くんだって、本当は不安で仕方ないんだ。
「…ううん。足を滑らせたのは私だもん。次屋くんのせいじゃないよ」
この状況で後輩に気を遣わせた挙句、再び励まされるなんて大馬鹿以外の何者でもない。私は四年生なんだから私がしっかりしなくちゃ。
悲しがっていても拉致があかない。せめて気丈に振る舞わなければ。
「大丈夫、大丈夫だよ。ここは蛸壺だからハッキリではないけど、空気がそんなに湿ってないから、きっと雨にはならないよ」
半分は自分に言い聞かせた。
彼の両腕に包まれたまま、肩口でもごもごと話す。今更だけど次屋くんてば年下なのに体格良過ぎる。
「ありがとうございます…」
「ううん、私の方こそ。励ましてくれてありがとう」
「…すぐ助かりますから、俺達」
「うん、そうだね。すぐ助かる、から…」
「違う。これは確証です」
「え?」
彼の最後の言葉が今までの声音とは明らかに違う。言葉尻に自信が見えて思わず聞き返した。
「いつまた獣が来るかも分からないし、雨が降るかも分からないから、不安には違いありませんけど…。すぐに、助かりますから」
「?」
「あの人は…」
「あの人?」
「あの人は、なぞの先輩の傍を一日も離れてられないでしょうから」
「えっ」
「もうすぐ見付けてくれるはずですから」
彼の言葉調子で"あの人"が誰なのかをすぐに理解する。
七松先輩だ。
「でっ、でも、七松先輩は先に一人で走って行っちゃったから、まだ探してもいないんじゃ、」
「こういう時だけ、本当に頼りになるんです。あの人は」
普段は暴君ですけどね、と付け足して笑う。彼の力強い言霊になんだか私もそんな気がしてきた。
七松先輩なら…七松先輩なら、助けてくれるかな。私達を。
「そう、だね…七松先輩ならきっと、」

 見ぃつけたあああ!!!

急に頭上から通りの良い声が降ってきて、鼓膜が破れそうになる。さっきの熊の比じゃあない。狭い蛸壺の中では音が反響する為、次屋くんと二人で頭をくわんくわんさせた。
だけど今はそんなことよりも、心の中が満たされる方が先。
降って来たその声が、たった今うわさをしていた、待ち望んでいた人の声だったから。
二人揃って顔を上げればそこに、
「七松先輩!」
蛸壺を覗き見る彼の姿があった。
「二人とも無事かぁ?」
ニッと笑って優しい言葉を降らせる彼。
曇り空を背負った笑顔はまるで陽のように暖かくて

ほんの少し、見惚れてしまった。


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