15.そのままずっといつまでも物語なんて始まらなければいい


「と、遠坂さん……蘇入くんは、大丈夫、なの……?」

 ナイフを向けられていた時よりも心臓が激しく脈打っている。気絶して動かない蘇入くんを見下ろす遠坂さんの青い瞳は、酷く冷たい色をしていた。見たものすべてを凍らせてしまうような、氷の瞳。「みょうじ先輩」それが私に向けられた時恐ろしさのあまり体が跳ねたけれど、幸運なことに胸に宿った心配は杞憂に終わった。彼女の顔は、あのお人好しの遠坂凛のものに戻っていたから。

「自分を襲った男のことを心配するなんて、貴方馬鹿な人ですね。……心配はいりませんよ。骨は2、3本、いえ10本くらい折れているでしょうけどたいしたことはありません。いずれくっついて、元通りになるんですからね」

 「それより、これは一体どういう状況ですか」遠坂さんに手足の縄を解いてもらいながら彼女の問いかけに答える。遠坂さんは一見とても冷静なようで、しかし声音は酷く苛立ったものだった。「私にも分からない……蘇入くんに気絶させられて、気がついたらここにいたの」
 スタンガンの光と、体を襲った激痛、暗くなる視界を思い出すと背筋が凍った。震える肩を自由になった両手で抱く。私……殺されていてもおかしくなかったんだ。偶然遠坂さんが来なければ……もしかしたら、死ぬより酷い目にあっていたかもしれない。ナイフの潰れた先っぽが視界にチラついて、ぎゅっと目を瞑った。

「……レイジュ、とか。サーヴァントとか、魔力とか魔術とか聖杯戦争とかよく分からないこと言ってた。私の魔術があればなんだってできる、って……」
「……そう。蘇入は魔術師の家系ですが、すでに没落しています。魔術回路が数本ある程度で何の力も持たない。だから、貴方の魔力を奪おうなんて馬鹿げたこと考えたんでしょうね。まあ、こんなこと今の貴方に言っても分からないでしょうけど」

 安心してください。冬木のセカンドオーナーとして蘇入先輩には然るべき処罰を下します。
 その名の通り凛とした声に『安心して』と言われても、私の震えは止まらない。怖い、怖かった、と。心の中で呟いたはずの言葉が無意識に唇から零れ落ちた。

「ランサーを呼びますか?」
「ランサー、さん……?」
「既に契約は破棄されているとはいえ、このことをアイツに黙っておくわけにもいきませんし。みょうじ先輩も、ランサーの側の方が落ち着くでしょ」

 ランサーさんの名前を聞いて寒気が治まる。一方で、彼のことを『アイツ』などととても親しげに呼ぶ遠坂さんに胸がチクリと痛んだ。一体遠坂さんとランサーさんはどういう関係なの?ランサーさんも、その魔術とか、そういう世界の人なの?私が見てきた彼は、本当の彼ではなかったのだろうか。
 疑問が、湧いて溢れ出す。けれども今の状況で呑気に質問なんてできるはずがない。だから私は、遠坂さんの提案に黙って頷いた。



「なまえ!」

 自宅のリビングに足を踏み入れた瞬間、あたたかい熱に全身を包まれた。「らんさーさん、」骨が折れそうなほど強く抱き締められて目尻に涙が浮かぶ。まだ、まだ何も言葉をかけられていないのに、抱き締められただけなのに、手足の隅々にまで安堵が広がっていく。ああ、とため息が零れた。みょうじなまえという人間が心底安心できる場所は、悪夢に魘されずに眠れる場所は、もうこの人の腕の中にしかないんだ。

「痛かっただろう。……オレがいなければ、お前がこんな目に遭うことはなかった」

 腫れた私の頬を撫でるランサーさんは、眉を寄せ苦しそうにしていた。まるで自分が腹を刺されたような顔。

「オレがいたらこんな目に遭わせなかったのに、じゃあ、ないんですか」
「……ああ。オレのせいだ。すべて。オレがお前に近づいたから、お前をまた傷つけた」

 ランサーさんが、後悔している。決して自分の過去を悔やまない人が、自身の選択を呪っている。そうさせているのは私だ。彼にこんな顔をさせているのは私だ。気高く美しい彼を汚しているのは他の誰でもない、私だった。
 私が側にいる分だけランサーさんは傷つく。しなくてもいい後悔をして、その誇り高い魂を濁らせてしまう。――じゃあどうするの?この熱を手放すの?ランサーさんから離れれば、それですべてが解決するとでもいうのだろうか。

「こんな傷、ちっとも痛くありません。ナイフを向けられたことも、一歩間違えれば死んでいたことだって、全然怖くない。貴方を失うことに比べれば」

 離れていく手を掴む。驚いたように目を見開いたランサーさんに、今度は私から抱き付いた。

「私は、貴方の側にいられないことがなにより怖い。貴方の声が聞けないことが、貴方に触れられないことがどんな傷より痛いんです。……生きていれば傷つくことだってあります。でもそれは、たいした問題じゃないでしょう?だって、こうして私の傷はランサーさんが治してくれるし、ランサーさんの傷は私が癒してあげるんですから」
「オレはいつかまたお前をひとりにする」
「ええ、分かってます。その時を想像すると怖くて足が竦むけど、でも、私は大丈夫。大丈夫だって、信じて」

 私を信じてください、お願い。まっすぐと綺麗な瞳を見つめて言えば、ランサーさんは縋りつくように私の肩に顔を埋めた。

「んな泣きそうな顔して言われても、説得力ねぇよ」
「……いつか訊きましたね。クー・フーリンは何故ドルイドの言葉を聞いて、迷わず戦士になったのか、と」

 あれはいつのことだっただろう。4日前か、もっと昔の出来事のようにも思う。釣り糸を凪いだ水面に垂らし、やさしい時間を2人で共有した日。あの時私はランサーさんに問いかけた。クー・フーリンは何故悲運が待っていると知っていて、それでもその道を歩いたのか。ランサーさんは笑った。自分で答えを見つけてみろ、と。

「私なりの答え、言いますね。彼は自分で自分の運命を選んだんです。武者立ちの儀をした瞬間から、いいえ、もっと前の生まれた瞬間から、彼は自分の運命を決めた」

 栄光と誇りと苦痛と死に塗れ、短く終わるその道を、クー・フーリンは誰に決められたわけでもなく、自分の手で選び取った。だから何が起こっても怖くなかった。もとより己で定めた運命なのだからと、すべての悲劇を受け入れた。

「私は彼のようになりたい。焦がれた、私の英雄のように。だから私も自分で自分の運命を選びます。──私は貴方を追いかけ続ける。たとえ追いつけなくても、貴方をひとりぼっちにさせたくないから」

 唇が震える。次の言葉を口にするのがたまらなく怖い。わがままを言うのは怖い。もし拒絶されたらと思うと、怖くて死んでしまいそうになる。……でも、でも──
 キャスターさんは言った。『少しくらいわがまま言ったって、あの男は貴方を嫌いになったりしないわよ』と。士郎は言った。『どうしてそこまでランサーを信じてられるんだ』と。『あいつはいつかきっと、先輩を置いていくのに』と。ライダーさんは言った。『なまえ、あの男は流星です。捕まえなければすぐに燃え消えてしまいますよ』と。
 胸元の十字架を握る。私にはもう何もない。何もない、けど、欲張ってもいいかなぁ。「ねえ、だから」

「だから、ランサーさんの側にいていいですか。……私は、遠坂さんのように美人でも強情でも肝が据わっているわけでもないけれど、貴方が愛した女たちと重なるところなんてひとつもないけれど、それでも、」

 私の言葉はランサーさんの唇によって遮られた。

「なまえがいいんだ」

 ひゅ、と呼吸が、一瞬止まった。

「泣き虫で、弱い、ひとりじゃ立っていられない、そのくせ変なところで意地を張る、なまえがいいんだよ。お前が泣いていると守ってやりたくなる。素直に涙を流せるお前が尊いと思う。オレにないものを持っているお前が美しいと思う。もっとオレに弱さをさらけ出してほしいと、思う。ひとりじゃ何もできないお前の手をとって、一緒に生きていたい。オレが、笑わせてやりたい。……好きだ、なまえ。誰よりも何よりもお前を愛している」

 それはまるで、少年が愛の告白をしているみたいだった。まだ大人になりきれていない少年が、懸命に背伸びをして自分の心を伝えようとする。好きと、ひたすらに繰り返す、拙い、あいのことば。
 いつも平然と私を見つめ返す彼が、声を裏返して熱い吐息を漏らしながら、私を求める。今、私を抱き締めている彼は、ただの男の人だった。何にも縛られていない、何者でもない、初恋を覚えたばかりのただの少年だった。私たちを遮るものは、何もない。
 ぅ、と短い嗚咽が零れた。涙が溢れ出す。広い背中に回した手に力を込め、ぎゅっとランサーさんに抱きついた。決して離さないように強く、強く。

「すき」

 己の耳にも届かないほど小さな声だったけれど、ランサーさんはちゃんと「ああ」と頷いてくれた。それが嬉しくて、たまらなく嬉しくて、もう一度喉を震わせる。

「だいすき、ランサー」

 ああ、やっと。彼の真正面に立てた気がする。



  
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