▼ 14.命短し恋せよ乙女
意識が覚醒して初めに視界に入ったのは錆びたナイフだった。なまくらな刃では肉を綺麗に斬ることはできないけれど抉ることはできる。そしてどちらがより痛いかと言えば、後者だった。
喉元に突き付けられたそれから逃れようにも、手足を縄で拘束されて身動きがとれない。加えて口には猿轡。下着を残してその他の衣服をすべて取り払われている。ここは地下なのだろうか。日の光が一切射さない暗い場所。そばにランプが1つあるおかげで、私を見下ろす蘇入くんの顔だけは辛うじて見ることができた。
「おはよう、みょうじ」
「んっ、ンン゛!」
眼前でナイフを揺らされて思わず止めて!と叫ぶ。けれど私の懇願は猿轡によって遮られ、くぐもった音に姿を変えるしかなかった。
自分の常識の埒外にある出来事と対面した際の、認識の追いつかなさによる冷静さが急速に萎んでいく。代わりに脳内を動揺、混乱、恐怖が支配する。何故こんな状況に陥っているのか、どうして蘇入くんにナイフを突きつけられているのか、何か彼の恨みを買うことでもしただろうか。何故、何故、と絶え間ない自問自答に耐えきれなくなった頭の回線が1本ショートする。そのせいで感情を抑えられなくなって、じわりと目尻に涙が浮かんだ。
「みょうじ、令呪はどこにやったんだ?君の体の隅々まで確かめたけどどこにもなかった。まさか三画ともすべて使い切ったのかい?令呪なしであのサーヴァントを使役してるのか?」
蘇入くんが早口でいくつもいくつも疑問をぶつけてくる。そのすべてが私には理解できなかった。レイジュ?サーヴァント?一体何のことなの。
「ああ口塞いでちゃ答えられないか。ほら……よっと、外したよ。さあ僕の質問に答えてくれ」
「……蘇、入くん……どうして、こんなことするの……?ッう!」
「僕は質問に答えろと言ったんだけど?みょうじって言葉の意味も分からないくらい馬鹿だったのか?」
殴られた頬が痛い。冷たい声音を吐く彼が全く未知の化け物に見えてきて、怖い。今になってようやく、彼は私の知る蘇入くんではないのだと、やさしい人気者ではないのだと、気づいた。
「私には、レイジュっていうのもサーヴァントっていうのもなんのことか分からない……私は貴方が一体何を言っているのか分からない!」
睨みつければ蘇入くんは僅かに目を見開いた。
「嘘を言っているようには見えない……だが確かに聖杯戦争には参加していたはず……記憶がないのか魔術にかかっているのか」
ブツブツと何かを呟いた後、彼は口を閉ざした。何分にも何時間にも感じられるその沈黙が、私には処刑へのカウントダウンに思えた。
そして結論が出たように頷いた蘇入くんはニッコリと満面の笑みを浮かべた。
「まあいいさ。僕が欲しいのはその魔力だけだからね」
「い、いやだ……っ!やめて、触らないで!」
「あーうるさいうるさい」
口を塞がれ、もう一方の手で胸元を弄られる。私の鎖骨の間に掌を押し付けた蘇入くんは何か呪文のようなものを唱えた。
その瞬間体内で膨大な熱が駆け巡り始めた。熱が、何もかもを薙ぎ倒す嵐のように中で暴れている。「う、ぁあ゛…ッ!」痛くはない。痛くはないけれどとにかく苦しい。高熱で魘されている時のような、動と静、生と死を行き来するような感覚。海の底に沈められて、急激に浮上したかと思えばまともに息継ぎをする間もなく再び深海に落とされる。このままじゃ四肢がもげて体が弾け飛んでしまいそうだった。
「ああ、ああすごいよみょうじ……!!少し取り込んだだけで力が溢れるようだ!君の魔力があれば、僕はなんだってできる!」
恍惚とした表情をする蘇入くんが、私には悪魔に見えた。
▽
妹の隣にその姿を見かけるようになったのは、一体いつの頃からだっただろうか。
私がもう呼べなくなった妹の名を呼び、笑いかけ、妹を笑わせる彼女はまるで姉のようだった。降りかかる幾多の苦しみから守りそっと寄り添う。みょうじ先輩は誰よりも、あの子の姉に相応しいと、私は思っていた。
「遠坂さんって弓道部に好きな人でもいるの?」
「っ」
いつものように弓道部を見学した後、そろそろお暇しようとしたその時だった。10歩歩いたところで突然話しかけられ、驚きのあまりまともな返事もできずに振り返る。道着姿のみょうじ先輩は扉に寄り掛かり、腕を組んで静かに微笑んでいた。
「いつも来るからさ。好きな人でも見に来てるのかなって思って」
またこの話か、と私は心底うんざりした。“弓道部にあしげく通う遠坂凛”を見た周囲がする、勝手でつまらない噂話。こんなくだらないことのために呼び止められたのかと思うと無性に苛立った。
『いいえ。ただ弓を見るのが好きなだけです』、そう答えようとして──しかし私は笑みを作るのを止めた。みょうじなまえがすべてを見透かしたような瞳で私を見ていたから。
さっと視線を落とし、小さく「そんなわけじゃ、」と呟く。その姿は“礼儀正しく自信に満ちあふれた優等生の遠坂凛“とは程遠い。
「好きなんでしょ?」
誰が、とは言わなかった。何が、とも言わなかった。彼女はただ一言、それだけを問うた。私の好きなものを、弓道部に来る理由を、この人は何もかも知っているのだと直感的に思った。
「好きならもっと近づけばいいのに」
私の側までやって来たみょうじ先輩は、まっすぐ扉の奥─弓道場を指差した。そこに何があるのか私は知っている。お揃いではなくなってしまった髪色。揺れる赤いリボン。私/姉を見つめる昏い瞳。
蝉がうるさく泣き喚く中、みょうじ先輩の言葉に一体何と答えたか。私は覚えていない。
ああ、そう、つまり何が言いたいかっていうと私は──彼女が羨ましかった。
妹の笑顔を側で見つめられる彼女が。妹に駆け寄ることを許されている彼女が。『間桐さん』ではなく『桜』と呼べる彼女が。
私が失ったものを持っている、彼女が。
つまるところ私たちは、互いにないものねだりをしていたのだ。
そんな彼女がたまたまセカンドオーナーの仕事で立ち寄った蘇入家の地下室で蘇入先輩に押し倒され、魔力を吸収されている様を見せられたらそりゃあ混乱するってもんで。咄嗟に蘇入先輩に投げつけた宝石は一級品も一級品、衛宮くんに使った例の宝石と同じくらい魔力を込めたものだった。
しまった、と思ったのは蘇入先輩がすごい勢いで吹き飛ばされたからではなく。こんな没落した魔術師にはガントで十分だったのにもったいない!っていう理由から。
「と、遠坂さん……?」
呆然と私を見上げるみょうじ先輩はあの夏の日の彼女と似ても似つかない。
湧き上がるこの苛立ちを、舌打ちをすることで発散させようとした。
「なんだってのよ、この状況は!!」
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