10.愛しい人よ、愛し合う程に僕らが遠退いてゆくのはなぜ


 私は毎朝、違和感の中で目覚める。
 一晩くるまっていたはずなのに冷め切った布団。自分の独り言とニュースキャスターの声しか響かない部屋。色違いのペアマグカップ。冬を越え春を迎えてからずっとこの違和感の中で暮らしてきた。今日だって変わらないはずだった。――なのに。
 緩やかに瞼を開けて、慣れた違和感とは違う感覚に襲われた。布団の中が、あたたかい。恐る恐る皺の寄ったシーツに手を這わせれば伝わる温度。そのあたたかさに、ビックリするくらい激しく、胸が揺さぶられた。……この温度を手放したくない、と何かに懇願するように、心から思う。シーツに縋りついた瞬間、ドアの隙間からニュースキャスターの声が滑り込んできていることに気がついた。
 リビングのテレビだ。
 慌てて布団から抜け出し立ち上がる。床はちっとも冷たくなくて、裸足がダメージを受けることもない。そんな取るに足らない事柄に何故だか無性に泣き出したくなった。……いや、理由は分かっている。ここが、石で造られた教会ではないからだ。
 リビングのドアの前に立ち耳を澄ませる。やっぱり毎朝決まって見ているニュースの音と、それから誰かの歌が聞こえた。日本語ではない歌詞と、子守歌のような穏やかなリズム。この声は……ランサーさんだ。

「お!起きたか。おはよう、なまえ」

 そっとドアを開けると、ダイニングキッチンでフライパンを握っている青い彼が笑いかけてきた。どうしてランサーさんが、と言いたかったのに私の喉は私の意思に反しておはようございます、とただの挨拶を吐き出した。

「メシの準備はしとくからお前は顔洗って来いよ」

 ランサーさんの言葉にこくり、と素直に頷き踵を返す。
 寝起きで頭がぼうっとしているせいなのか、今の光景に何の疑問も湧かなかった。……いや、ううん、違う。寝起きのせいじゃない。冷水で顔を洗ったおかげで頭が冴えてきたこの瞬間も、ランサーさんがこの家にいることに疑問も違和感も抱けない。
 幾度となく見てきた景色のようだ。彼が朝食を作り私をおはようと迎えることを、抵抗なく受け入れている。それが当たり前なんだと、私の心が叫んでいる。

「ランサーさん、どうしてここに……?」

 身支度を済ませ再び食卓へ戻る。イスに腰を下ろし、向かい側に座るランサーさんへ問いかけた。昨日、港で会った後家まで送ってもらい、ついでだからと釣った魚でご飯を作ってもらったことまで覚えている。けれどその後の記憶は……何故かごっそりと抜け落ちていた。

「すげえ眠そうだったからな、覚えてねえんだろう。なまえがランサーさんともっと一緒にいたい、帰らないで〜って言ったんだぜ?」
「は、え、え、……!?」

 頬杖をつきニヤニヤと笑うランサーさんに、彼が裏声で言った台詞に、驚き過ぎてまともな言葉が出てこない。な、なにやってんだ私……!
「隣で寝てくださいって言うからちょいと寝床に邪魔したが、まあ許せよ」

 本当になにやってんだ!!

「狼にはなってねえから安心しな」

 そういう問題じゃないです……。
 いくら眠かったとはいえ、そんな行動に出るなんて。迷惑かけて、と謝るとランサーさんは一瞬目を伏せて、またニカッと笑った。「俺も得したから気にすんな」
 さあ食べようぜ、と言われテーブルの上に視線を落とす。わざわざ食材を買ってきてくれたのだろうか、うちにはない材料で作られているものもあった。ガーリックトーストにハムエッグ、フルーツ入りのヨーグルト。シンプルなところがランサーさんらしい、と微笑む。

「ほら、コーヒー」
「ありがとうございます……うっ!にが!」

 オレンジ色のマグカップを急いで口から遠ざけ、舌の上を陣取る苦味に唸りながら向かいの席の男を睨んだ。ランサーさんは愉快そうに大笑いしている。手まで叩くことか……!涙まで浮かべているし、もう!

「やっぱりな。ブラック苦手そうだと思ったんだよ!」
「も〜!!ランサーさんのバカ!」

 ──と、シュガーとミルクを取りに立ち上がったところで、瞳がその光景を捉えた。
 瞬時にして言葉を失う。頭からつま先まで冷たいものがサァっと駆け抜けていって、指先が震える。今、自分がきちんと呼吸をしているのかどうかも分からなくなった。

「なまえ……?」

 私の様子に気づき、笑いを止めて見つめてくるランサーさんにも応えられない。
 涙が一筋、頬を伝った。

「なっ、おい、どうした!?いじめすぎたか、わるかった、なまえ、」
「ちが……違うんです、大丈夫です、だい、じょう……ぶ、っ」

 慌てて私の側に寄り涙を拭ってくるランサーさんに、無理矢理繕った笑みを返す。それでも涙はどんどん溢れて止まらなくて、ひっく、と喉まで鳴り出す始末。だけど私は懸命に口角を上げようと努力した。そうしなければ何かが崩壊する予感がした。

「違うんです、ランサーさんが悪いわけじゃないんです……ッ、ただ、ただ……そのマグカップが、貴方に似合うなぁって……思っただけで」

 そう思ったらすごく悲しくなって、切なくなって、嬉しくなって、怖くなって、涙が零れていた。
 私のものと色違いの、青いマグカップ。それをランサーさんが持つ様があんまりにも見慣れたものに感じられて、でも私の中にその記憶はなくて、でも気のせいだと切り捨てるにはあたたかすぎて、もうわけがわからなくて。
 過去の私は、その青いマグを彼のために買ったのだと、ただそれだけを残酷なまでに確信した。



 ねえ、クー!これにしよう!こっちは私ので、こっちは貴方のね。そう言ってなまえは俺に青いマグカップを握らせる。中央に小さな犬の絵が描かれていた。クーにぴったりでしょ?私のはうさぎなの!女の手元を覗き込めば確かにオレンジ色をした方にはうさぎの絵が描かれている。次はお皿や箸を見に行きましょ!俺の持つカゴに2つのマグカップを入れたなまえがグイグイと手を引いてきた。随分とはしゃいでいるマスターに苦笑いしつつも、ご命令とあらば、とついて行った。
 過去のことを思い出しながら、泣き疲れてベッドの上で眠るなまえの目元を撫でる。壁掛け時計の時を刻む音だけが部屋の中に響いていた。
 教会に住み始めた頃なまえはオレ用の食器を揃えることにこだわった。サーヴァントは食事を必要としないから食器類もいらないとオレは言ったが、なまえは聞かなかった。ただただ楽しそうに、オレを連れ回した。
 オレに似合う、か。当たり前だろう。お前がオレに選んでくれたんだからよ。なんて文句は今のなまえに言ってもしょうがない。

『ランサー、待って、帰らないで。ここにいて』

 記憶が混濁し始めていることは知っていた。だが、あそこまではっきりと“なまえ”が出てくるとは。……昨夜はそれなりに驚いたぜ。

『クー、私寒いの。あたためて、貴方の熱をちょうだい』

 引きずられて潜り込んだ布団の中は酷く冷たかった。こいつは、毎晩この冷たいベッドで寝ていたのか。そう気づいたら、小さな体を抱き寄せる手を止められはしなかった。
 狼にはなっていない。なまえに言った言葉に嘘はない。抱いてしまえばなまえはすべてを思い出す。抱かなくても……いずれ失われたものを取り戻す。なんだよ、結局思い出すんじゃねえか。八方塞がりだ。もう、退路はどこにもない。

「ごめんなぁ……」

 オレに出会ってしまったから、記憶を塞いだ蓋が外れたんだろう。オレと言葉を交わしたから、オレに触れられたから、キスをされたから。
 オレが離れればいいのか。オレがなまえを手放せば、なまえがオレから遠ざかれば、まだどうにかなるだろうか。
 ――ああ、だが、そんなことは……オレもなまえも、

「できるわけ、ねぇよなぁ……」

 いつからオレはこんなに弱くなっちまったのか。



  
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