11.ヤマアラシの君と僕


 今日のような雲一つない快晴の日に洗濯物をしないという選択肢はない。遠坂邸にあるリネン類をすべて太陽の下に干し、10月の涼しい風に揺れる白を眺めて満足感に浸っていたところ、ふいに玄関先に気配を感じた。まるでそっちから来いとでも言っているようなこの偉そうな気配は、忌々しいあの男のものだ。
 できることなら関わりたくない。このまま無視していたい。だが家主の留守を預かっている身としてはそうもいかなかった。躾のなっていない狗に暴れられて大目玉を食らうのは私の方である。仕方ない、と深いため息を吐き玄関先に向かう。
 そうして、私の穏やかな昼下がりをぶち壊した男が見せた面はそれはそれは酷いものだった。

「……よお、アーチャー」
「失恋でもしたか?」
「ま、まだしてねぇよ!」

 まだ、とはこれからする予定なのか。かの大英雄が随分と弱気になっている。
 恋破れたのかと思うほどに情けない顔をしたランサーをリビングへと案内して、紅茶を入れる。彼にあんな顔をさせる人間は私の知っている限り1人しかいない。なまえの話とあらばじっくり聞かなければ。内容によっては殴る。

「それで、何があったんだ」

 ティーカップをランサーの前へ置き、イスに腰掛ける。揺れる琥珀色を見つめながら、ランサーは語り出した。
 なまえの記憶が混濁し始めていること。一昨日の夜、はっきりと“なまえ”が出てきて、自分を「クー」と呼んだこと。我慢できずに近づいたものの、あの日々の記憶を取り戻しかけている彼女を見てどうしたらいいか分からなくなったこと。話しかけてくるなまえから逃げて、商店街からここまで走ってきたこと。
 ……今私の目の前にいるこの男は、一体誰なのだろう。本当にランサーなのだろうか。私にはクー・フーリンという英雄でも、ランサーというサーヴァントでもましてや戦士でもない、普通の男のように見える。まるで流星として生きることを決める前の、まっさらな少年のように。

「敵国の女王や槍の師匠や師匠の娘にまで手を出し好き放題した男が、私に恋愛相談とは。なまえ相手になると流石のクランの猛犬も初恋もまだ済ませたことのないティーンに戻ってしまうようだ」
「……ああ、そうさ。オレはなまえのこととなると……弱くなる」

 弱くなる、などと。
 やはり普通の人間のようなことを言う。

「なあアーチャー。お前だったらどうする」

 私がランサーの立場だったら。
 ランサーの問いに、紅茶を一口飲んでから答える。

「そもそも始まらない。私は彼女に近づかないし、彼女が寄ってこないよう徹底的に避ける。なまえは私を忘れたまま、知らないままずっと生きていく。私は何が何でも彼女の綺麗な世界を守り通すよ」

 なまえが幸せならば、隣に自分がいなくても構わない。
 「だが、君は私ではない」ランサーを見やる。御子殿は相も変わらず情けない顔をしていて、笑い飛ばしてやりたくなった。『なまえはオレのものだ。生かすも殺すもオレが決める』とまで言い放った男はどこへ行ってしまったのだろう。

「ランサーは手を伸ばした。もう一度、なまえに呼ばれたいと願ったんだろう?それがたとえ彼女の笑顔を壊してしまうことになるとしても、君は望んだ。なら、もう放すな。ずっと手を繋いでいてやれ」

 そうしてなまえがもっと悲しむ結果になったとしても、涙を拭ってやればいい。もう一度、笑わせてやればいい。
 別れが再び来るとしても、ランサーがいなくなった世界で強く生きられるくらいの思い出を、道しるべとしてあげればいいのだ。

「分かったらさっさと帰れ。近々凛が帰って来るのでな、掃除をしなければならない。貴様がいると邪魔だ」

 ティーカップを回収し、ランサーに背を向ける。「……ああ、あとひとつ」キッチンに戻ろうとしたところで言い忘れていたことを思い出し、足を止めた。扉と向き合ったまま、紡ぐ。

「次情けない理由でなまえを泣かせたら、今度こそ私が貰うからな」

 ……わりぃ、アーチャー。
 ランサーの声が背にぶつかった。



  
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