4.あなたを上手に食いちぎる


 私は毎朝、違和感の中で目覚める。
 一晩くるまっていたはずなのに冷め切った布団。自分の独り言とニュースキャスターの声しか響かない部屋。色違いのペアマグカップ。違和感だらけのはずなのに、懐かしくて愛おしいとさえ感じてしまうこの部屋は私にとって居心地も気味も悪い箱でしかなく、責苦に似た何かから逃げるように、今日も冬木の街へと飛び出す。
 飛び出した先で、私は2人の男に絡まれていた。魚屋のバイト中のランサーさんと、全身真っ黒なアーチャーさんという方だ。肌も褐色の”弓兵”さんは銀糸の髪の毛だけが日に照らされて透けるように輝いていた。

「いい加減退きたまえ、ランサー。なまえは今晩私の手料理を食べる。それで決定したはずだが?」
「なーんにも決まってねえよ。大体初対面のテメェよりオレと楽しく過ごす方がいいに決まってんだろうが、なあなまえ?」
「え?あ、はは......」

 事の始まりは店頭で言い争う彼らを見かけたことで。そう、2人は私が来る前からケンカしていたのだ──アーチャーさんの自己紹介やランサーさんのバイト遍歴など世間話をしていた時、私がふいに漏らした『そういえば最近自炊してない』の言葉に彼らは反応した。コンビニのお弁当で済ませていることをアーチャーさんからこっぴどく叱られ、そのあまりの迫真ぶりにすっかり萎縮してしまった私がビクビクしながら『だって時間ないし』と言い訳すると、何故か彼は自分が作ることを申し出た。そしてそれにランサーさんも乗っかり、今に至る。

「ふん、貴様になまえを満足させられる料理が作れるのか?」
「できるわオレにだって!舐めんな!ダイオウグソクムシの姿揚げだとかだなあ」
「それだけはやめろ、たわけ」

 今、ダイオウグソクなんちゃらって聞こえた気がしたんだけど、一体なんだったんだろう。アイルランドの食文化は複雑怪奇だなあ、なんてこと他人事のように考えていたら突然手を引かれて後ろに倒れこむ。行き当ったのはアーチャーさんの胸板で、後ろから彼に抱きしめられた。「えっ、アーチャーさん!?」視界の隅にランサーさんの瞳が映った。恐ろしいほど冷たい色をしていた。
 「ほうら、店主に呼ばれているぞランサー。どうやら私の勝ちのようだな」舌打ちをして奥へ戻ったランサーさんは、数分後どこかしょんぼりとした様子で帰ってきた。おつかいを頼まれたらしく、私には構えないのだという。

「別に構いませんよ。今度またご一緒してください」

 ランサーさんとまた会える口実ができて、たまらず嬉しくなる。緩み切った顔を見られないように俯いた。


「おいしい。アーチャーさん、料理とてもお上手ですね」
「満足してくれたなら光栄だよ」
「でも不思議。私の後輩の作る味によく似ています。なんでだろう?」

 アーチャーさんが黙りこくってしまったので慌てて弁明する。

「いや、あの、アーチャーさんの方は年の功が出ているというか、まろやかさが、えっと」
「いや、大丈夫だ。気にしなくていい」

 僅かに浮かべた微笑に、何故だか息が詰まるような思いがした。彼がこんな風に穏やかな顔を向けてくれることに、心の底からほっとしたのだ。
 食卓に並ぶのはロールキャベツに、野菜たっぷりのスープ、ハロウィンが近いからだろうパンプキンケーキ。どれもこれもあたたかくて、お腹の中から全身にぽかぽかと幸せが染みわたっていくよう。
 やっぱり、まるで士郎の料理を食べてるみたいだ。

「誰かと一緒にご飯を食べるのは、とても久しぶりです」

 視線を向けた窓の外はすっかり闇に沈んでいて、秋の深まりを感じると同時に暗闇の中から何かが襲ってくるのではないかという不安に苛まれる。それが、私に言葉を吐き出させていた。

「昔は新都の、丘の上の教会に住んでいて。訳あってそこから追い出されてからは、多分2週間程度の短い時間にすぎないんですけど、とても大切な人と食卓を囲んでいたんです」

 でも、私はその大切な人の顔も思い出せない。もちろんその人の名前も、どんな話をしたのかも、私の中には残っていない。記憶喪失なんです、と半ば笑うように言った言葉は震えるくらい寂しげに響いた。

「覚えていないのに、何故相手が大切な人間だと分かるんだ」
「そうじゃなかったらとっくにお茶碗もマグも捨ててますもん。気味が悪くて。でも私はそうしない、できない。体に染みついているんですよ、どうしようもなく大切だったって」

 違和感が詰まった箱の中は、気味が悪いのと同時に私を酷く安心させる。あの部屋の中にいれば、私はずっと大切な人の、私が愛した人の影に包まれて守られて、嫌な目にも危険な目にも遭わずに済む。誰も傷つけず、誰にも傷つけられずに、純粋無垢な安寧を享受していられる。
 「会いたいか?」いつか、遠い昔、刃のようだと感じだアーチャーさんの瞳は優しくて、寂しそうな色を浮かべていた。

「それは、もちろん。でも会ってしまったら、思い出してしまったらこの日々が終わってしまいそうで、少し怖いかな」


 家まで送ると言ってきかないアーチャーさんを、冬木大橋まででいいですからと丁重にお断りして別れる。数メートル歩いて振り返ってみるとまだアーチャーさんが立っていて苦笑する。もういいですよ、また会いましょうという思いを込めて手を振る。そして私は振り返らず再び歩き出す。彼は紳士なのか過保護なのか分からない。
 ──でも、まあ、やっぱり送ってもらえばよかったかな。
 こんなこと、今更思ってももう遅いんだけど。足の感覚はもうないし、今度はお腹がじくじくと痛み出した。食いちぎられているのは、腸、かな。わあ、すごい。自分の内臓なんて初めて見た。なんて、能天気に思ってみても死の運命は変わらないわけで。
 『あの獣──と貴方には反応しま──守ってもらうとい──ね、赤い弓兵あた──いわ』頭の中でリフレインするのは、主のいない教会で白いシスターに言われた言葉。もしかして赤い弓兵ってアーチャーさんのことだったのだろうか。そうなら、本当に、世話無い。乙女らしく、いい男に甘えていればよかった。

「あ、だ……め……ッ」

 黒い影が私の首から十字架を攫って行く。その際首元を牙が掠って血が、いっぱい、出たけどそんなの構ってられない。十字架を、取り返さなきゃ。あの人から譲り受けた、大切なもの。
 手を伸ばした先からまとわりつかれて、もううざったいったらありゃしない。舌打ちをしたら指先に何か当たった。それは、赤い十字の柄だった。でも意味ない。間に合わない。赤い十字を正しく機能させる力はもう残ってない。あと数秒で、私は死の淵に突き落される。

「──ああ、ほんと、いやになっちゃうな」

 こんな時でさえ、頭に浮かぶのがあの青い後ろ姿だなんて。


  
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