▼ 3.傷口に埋めた愛を忘れない
丘の上の教会。厳かで、神秘的、善も悪も受け入れる、何人にも開かれたそこへ伸びた坂道を私は何度歩いただろう。夏は容赦ない日差しに、冬は吹きすさぶ冷たい風に悪態を吐いて、それでも私は必ず教会へ帰った。礼拝堂の最前列に座ってミサを執り行う神父様を眺めるのは一番のお気に入りで、たわいもない話をしながら食事をとるのは楽しかった。そこではたと、気づく。私は一体、誰と話をしていたんだろう。神父は食事中にたくさん話をするような人じゃなかった。前の席に神父、隣に誰かの気配、斜め向かいの席はまだ空いたまま。私は、一体誰と、隣にいたのは、誰──ズキリと走った頭痛に思考が遮られる。
日差しは強くないのに眩暈がしたから、考えるのをやめた。坂を上り終え、教会に続く長い道を歩き、礼拝堂の扉へたどり着く。
「っと、すみません」
入口を開けたらちょうど人が出てきたので道を譲る。「あれ、士郎?」出てきたのは士郎だった。彼は教会には寄り付きたがらなかったのに、どうしたんだろうと驚きと不思議を抱えて見やれば、士郎はほんの一瞬私に視線を向ける。
「ぁ……」ぞくり、背筋が凍る。この人は、士郎じゃない。姿は衛宮士郎そのものだけれど、中身が違う。これは、誰。
「中へ入らないのですか」
儚げな声に我に返る。振り向けば祭壇の前に白い少女がいた。見た目までもが儚い。今にも消えてしまいそうだ。本当にここに実在しているのだろうかと、不安になる。
扉を閉める。士郎の殻を被った誰かの背中は、もう遠くになっていた。
整然と並べられたイスの間を進み、少女と対面する。修道服を着ているから、シスターなのだろう。こんな少女、いただろうか。
「あら、随分とたくさん忘れ物をしてきてしまったのね」
シスターは私を見据えて開口一番、そんなことを言った。
「貴方はこの世界の理には含まれないから、きっとバグを起こしてしまっているのだわ。あの獣もきっと貴方には反応します。駄犬に守ってもらうといいでしょ……いいえ、ダメね、赤い弓兵あたりがいいわ」
「待って、バグ……?何を言っているの?言峰神父はどこに、貴方は誰ですか」
わけのわからないことばかり言われて、ついていけない。勝手知ったる教会なのに、まるでここが異国みたいで不安が募る。早く、綺礼に会いたくてたまらない。
「私はカレン。カレン・オルテンシア」
「カレン、オルテンシア……」
「ファーストネームは父の国の言葉。ファミリーネームは母の国の言葉で紫陽花を意味します。どうぞよろしくお願いします、みょうじなまえさん」
紫陽花。雨に濡れながら咲く美しい花。目の前の少女はさしずめ白い紫陽花といったところだろうか。白い紫陽花の花言葉は『寛容』すべてを受け入れる、純白。ノイズが走る、シスターが見たこともない誰かと重なった気がして、眩暈が酷くなった。逃げたいと思った。
「綺礼は」浅い呼吸で言峰神父はどこですかと問う。こんなわけのわからない少女と話している暇はない。私は綺礼に会いに来たのだ。「早く綺礼に会わせて」
「そのような名前の神父はここにはいません」
「──え?」
一瞬視界が真っ暗になる。綺礼がいない?そんなはずはない。本当に勘弁してほしい。こんな年端もいかないシスターを差し向けて、私をからかっているのだ、彼はきっと。多分、隣の、礼拝堂の音が筒抜けになる部屋でこの茶番を聞いて、クツクツと笑っているに違いない。いつもなら遊びに付き合ってあげたけれど、今はそんな余裕はない。ほら、早くネタ晴らしをしないと私だって痺れを切らしちゃうんだから、
「そんなことまでも忘れたのですか、みょうじなまえ」
金色したまん丸の瞳が私を射抜く。父親には一切似なかったその容貌は可憐で、全身で私を責め立てているようだ。
「言峰綺礼は死──」
バン。すべてを聞く前に乱暴に扉を開けて礼拝堂を飛び出る。息を切らして、まっすぐ走れているのかもわからないけれど、とにかくがむしゃらに手足を動かして礼拝堂から、あの少女から遠のく。やめてほしい。本当に、やめてほしい。あんな冗談私の耳は受け入れない。首からぶら下げた十字架が跳ねる。
そしてやっと門のところへたどり着いて「お姉さん」背後からかけられた声に、足を止めなければいいのに、不思議な強制力が私を振り向かせた。
「そんなに急いでどこへいくんですか?お姉さん」
金髪の、少年。私よりずっと小さいのに、強すぎる存在感でこちらが押しつぶされてしまいそう。
「いいえ、何から逃げてるんですか、お姉さん」
熟した果実のような目が私の呼吸を止めさせる。ランサーさんと同じ色のはずなのに全然違う。
「ここは貴方が望んだ世界だ。みんないる。ランサーさんだってちゃんと貴方の側にいる。なのに、何がそんなに不満なんですか」
「ここ、が」
私の、望んだ世界?ここが?そんなわけない。あり得ない。馬鹿じゃないの。あの人がいない世界なんて、私は望んでなんかいない。どんな可能性でもあの人は存在し得ないなんてそんなの、悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、どうしようもなく泣きたくなる。あの人をはじき出したこの世界なんて、私がもっとも忌むべきもので、たとえその中にどれだけ愛おしいものが詰まっていようと、私は──あ、れ。
可能性って、なに。あの人って誰だっけ。この十字架は誰からもらったんだっけ。私は一体、何を考えて。
「い、や。いや、いやだ。やめて──」
後ずさり、踵を返して、坂道を下る。半ば転げ落ちるように必死に走って、とにかくもう何もかもから逃げてしまいたかったから周りなんて見えてなくて、当然躓いてしまった。
倒れ込み、膝を擦り、手のひらを擦り、滲んでくる血を見てそこでやっと気持ちが落ち着く。周囲に人通りはなく、地面にへたり込んだまま抉れた膝から流れる血をぼうっと眺めていたら、いつかもこんなことがあったことを思い出した。
昔。そう、昔のことだ。雪が降った寒い日、私はこの坂道で滑って転んで、そして誰かに手を差し伸べられた。『大丈夫か?ドジだな、なまえは』あれは一体、誰だったんだろう。決して忘れちゃいけなかったはずなのに、どうして私はそんな大切なものを失くしてしまったんだろう。
急に心細くなって、目の奥が痛くなる。瞼から涙が零れ落ちる寸前、大きな手が視界に現れた。
「大丈夫か?ドジだな、なまえは」
上を向くと、反動で涙が頬を伝った。それを優しく拭われて、もう一度手を差し伸べられる。突然のことにその手と天空に重なる蒼髪を交互に見比べるしかない。
「ん?ああ悪い。痛くて歩けねえか」
「ランサー、さん……」
「よお、なまえ。昨日ぶりだな」
ニカッと笑ってランサーさんは私の膝裏に腕を差し込み、背中を支えて、軽々と持ち上げた。それはあの、お姫様だっこ、とかいうやつで。密着する体に先ほどまでのことや膝の痛みも忘れて、私の顔はカーッと熱くなった。
「ば、なっ、ランサーさん、何……っ」
「いいから、大人しくしとけ」
私を抱えた腕の力を強くして、ランサーさんは坂を下り始めたのだった。
「ン……ぃ、はぁ……っ」
「……」
「っ、ん、ぁっ……!」
「……あーごめんななまえ。沁みるよな」
「えっ?あ、大丈夫で……痛ッ、やっぱり、大丈夫じゃないです……」
「ん。素直でいい子だ。もうちょっと我慢な」
公園のベンチに座って、私はランサーさんによる手当てを受けていた。彼がコンビニで買ってきてくれた絆創膏がべたべたと膝と手のひらに貼られる。不器用な手つきのくせに、優しさだけはありったけってくらい感じられて胸の奥が温かくなる。さっきまでは頭の中が混乱してわけがわからなかったのに、今は嘘のように心穏やかだ。ランサーさんが側にいる、それだけで。
手当てを終えたランサーさんは、ふいに私の膝の前で指を滑らせた。「何をしてるんですか?」彼がなぞった空に文字が現れた気がした。「まじないだ。いたいのいたいの飛んでけーってな」不思議と痛みが引いてきて、やっぱりランサーさんはすごい人だと思ってしまって、慌てて首を振る。盲目になり過ぎるのは、ダメだ。
「ありがとうございます、ランサーさん」
「ああ。……教会には、何の用だったんだ」
声をワントーン下げて問うてくるランサーさんの目は至極真剣で、視線を逸らせない。
「あ、えっと……神父様に、会いたかったんですけど」
「言峰か」
「知ってるんですか?」
「まあな。あいつはあそこにはいねえよ。だから、もう教会に行くのはやめろ」
私の胸元の十字架に、彼の長い指が絡まる。そしてぐいっと肩を抱き寄せられて、至近距離で見つめられる。キスができそうなくらい、近い。
「それよりも、オレとデートしようぜ」
「……へっ?」
でーと?date?デート?
「それは、私と、ランサーさんが、デートするってことですか?」
「おうよ。あんな辛気臭えところより、もっと楽しいところへ連れてってやるよ」
だからオレとデートしよう、と言うランサーさんの笑顔は太陽みたいに眩しくて、私は頷くしかなかった。
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