2.明けない夢に少女がいた


 みょうじなまえは聖杯戦争に関する記憶を失っている。それに伴い記憶は改ざんされ、自分は冬木で生まれ育ったと思い込み、坊主や間桐の嬢ちゃんたちはただの後輩としてなまえの記憶に留まった。だが、オレたちサーヴァントとなまえの関係の根底には聖杯戦争しかなかったから、あいつはすべてを忘れた。街ですれ違ってもあいつは何一つとして反応しなかった。一切見向きもせずオレの隣を通り過ぎた。
 それが、悔しくなかったとは言わない。だが、仕方ない。オレはなまえにオレのことを忘れるなとは言わなかったし、どこかでなまえが笑っているのなら満足だった。
 それなのに、あいつは自らオレのもとへ来た。

「いらっしゃいま……なまえ」

 来客を知らせるドアベルに、いつも通りスマイルを浮かべて振り返ると、そこにはなまえが立っていた。接客しようとする同僚を制して近づくと、なまえは後ろ手に隠していたのだろう小さな紙袋をオレに差し出す。

「こんにちは、ランサーさん。あの、これ……昨日のお礼です。つまらないものですが、よかったら、どうぞ」
「……ああ。ありがとな」

 昨日のお礼……ああ、ケーキのことか。奢りだと言ったのに律儀な女だ。
 微妙に震えているなまえの手から紙袋を受け取るとなまえはホッとしたように口元を緩めて「それじゃあ、私はこれで。また今度お茶しにきますね」と踵を返す。
 「待て」去ろうとするなまえの腕を咄嗟に掴んだのは半分無意識で、半分もったいないと思ったからだ。

「もうすぐ上がりなんだが、あんたがよければ待っててくれないか」

 まだ話したい、と言えばなまえは目元を僅かに赤らめて頷く。くそ、なんだその初々しい反応は……!今すぐにでもキスしたい衝動を抑えて、彼女か?とからかってくる同僚をスルーしつつ、オレは仕事に戻った。


「槍術ですか。だから"ランサー"さんなんですね」
「まあな。なまえは何かやってるのか?」
「高校の時は弓道をしていました。今は何も」
「弓道ね。いいな、お前によく似合うだろうな」

 そういえばなまえが弓をしている様を見たことはないな、と。そんな何でもないことがオレを無性に寂しくさせた。
 オレとなまえの距離は、少し遠い。手が触れ合うこともない。ふと、まだなまえがオレのことを覚えていた頃、手を繋いで並んで歩いたことがあっただろうかと考えて、そんなこと一度もなかったと気がついた。
 オレはなまえのことを愛していたし、なまえもオレのことを愛してくれていたが、あの頃オレたちの関係はどうしようもなく主従関係でしかなかった。
 ま、今は主従でさえないのだが。

「あ、」

 なまえが小さく声を漏らす。視線の先を辿ってみればクレープの出店があった。金髪の子供が「ありがとう、お姉さん!」と店員の姉ちゃんに笑顔を振りまき、クレープを手に去っていく。一瞬、ルビーのような目がオレを見た。

「食いてえのか」
「えっ!?いや、その、おいしそうですけど今節約中なので……」
「何言ってんだ、このくらいオレが奢ってやるよ」
「そんな、お礼したばっかりなのに悪いです」

 わたわたと焦ったようにオレの腕を掴んで止めるなまえの瞳は今まで見てきたどんなものよりも違った。本当になまえの中ではオレは出会って2日の男でしかなく、ほんの少し手を動かしただけで切れてしまう関係。ああ、もったいない。こんなにも近くにオレの女がいるのに、手放すのはあまりにも、我慢ならない。
 「じゃあ、」自分で別れを告げたくせに何を自分勝手なことを、と赤い弓兵あたりは言うだろう。事実だ。それは正しい。これはオレのエゴでしかなく、夜が回るたびにきっとオレはなまえを悲しませる。

「クレープのお礼も今度してくれよ。ああ別に、金がかかるものじゃなくていい。お前が会いに来てくれるだけでいい。なあ、いいだろ、なまえ。オレはなまえにこれからも会いたい」

 顔を覗き込んで言えば、ゆるゆると頷いて、それから笑顔の花を咲かせる。ああ、オレも大概悪い男だが、これはお前も悪いんだぜなまえ。そもそもお前がオレのもとへ来なければ炎が再び胸を焦がすこともなかっただろうに。
 「おいしいです!ありがとうございます、ランサーさん」クレープを頬張るなまえの頭を撫でてやる。「ついてるぜ。ははっドジだな」なまえの口の端についたクリームを指先で拭って舐める。甘い。なまえの唇はもっと甘ったるいんだろうなと目を向ければ、なまえがぷるぷると震えていた。髪から覗いた耳が赤い。

「……そ、いうのズルい、です。ランサーさんって、誰にでもこんなことするんですか……?」
「いいや、なまえだけだが」

 ぼんっと沸騰したように赤面するなまえ。可哀想なくらいに目が潤んでいるので、おいおい大丈夫かよと手を伸ばすが、ふわりと躱されて届かない。

「いっ家、もうすぐそこなので今日はこれで……っ!あ、ありがとうございましたっ」
「なまえ!」

 逃げるように背を向けるなまえに慌てて呼びかける。

「また、今度な。なまえ」

 なまえが振り返る。いつの間にか短くなっていた髪が揺れる。

「はい。また今度、ランサーさん」

 遠のく背中を見送って、一転、気を引き締める。先ほどまで適度な距離を保って鬱陶しい視線を向けていた気配は今はすぐ後ろ。
 「自分から別れを告げたくせに、随分と身勝手なのだな」ほら、嫌味ったらしい声音は言った通りだろう。

「うるせえな。んなこと分かってんだよ。だが、テメェ、あんな反応されて放っておけるか?」
「ふむ、それは無理だな。あまりにも可愛らしすぎた」
「だろ?手出さないと男が廃るってもんだ」

 マスターでもなく、サーヴァントでもなく。英雄としてのオレを知らないなまえと他の可能性を探ってみるのもいい。どうせこの箱庭が開かれることは当分ない。

「……好きにしろ。だが彼女を泣かしたら私が貰っていくからな」
「ハッ上等だ」

 まずはなまえと手を繋ぐことから始めるとするか。


  
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