1.さあ、永遠を始めよう


 胎児よ胎児、何故踊る。
 母親の心が分かって恐ろしいのか。



 不思議なものを見た。
 夢というには明瞭とし過ぎていて、現実というにはあまりに突飛だった。舞台は私がまだ穂郡原の制服を着ていた頃、冬服だったからおそらくまだ寒い季節の、この街。私は突飛な出来事──詳しく言うと魔術師とか魔法とかなんでも願いが叶う万能の杯とか、そういういかにもファンタジー作品のような出来事に巻き込まれて(いや、巻き込まれたってのはあんまり正確じゃない。明らかにあれは自分の意思で参加していた)誰かを傷つけて、誰かに傷つけられて、ある男の人と別れた。
 男の人の顔ははっきりと分からなかったが、彼はとにかく青くて、赤かった。あととても美しかった。顔も分からないのに美しいと言うのはおかしいかもしれないけれど、纏っている雰囲気からして、触れることを躊躇うくらいには気高かったのだ。
 そういう、不思議なものを見た。



「いらっしゃいませ」

 チリンチリンと来客を知らせたドアベルに店員さんが振り返る。席を案内してくれるものと思いきや店員さんは私を見ると固まってしまってしまって、何かしただろうかと首をかしげる。「あの……」一歩近づくと背の高い彼ははっと我に返って窓側の席を指し示した。「こちらへどうぞ」低い声が耳をくすぐる。
 席に着いて息を吐く。俯くと前髪から水滴がテーブルに落ちる。まったく、雨が降るなんて聞いてない。折り畳み傘も忘れたかと思えば、ハンカチさえ持っていなくてこのまま自然に乾くのを待つしかない。
 雨宿りと、慌てて駆け込んだ喫茶店は私以外に客はいないけれど、明るすぎない照明が落ち着かせるいい雰囲気の店だった。
 「お客様」雨粒が滑り落ちる窓を眺めていたら呼びかけられて、その後に頬にふわりとした感触が掠る。「えっな、何!?」驚いて視線を向けると先ほどの店員さんがタオル片手に笑うのを我慢して肩を震わせていた。

「なん、なんですか……っ」
「いや、驚かせてすみません。濡れていらっしゃったので」
「あ、ありがとうございます……でも、自分で拭きます」
「いえいえ、これも当店のサービスなので」

 ニッコリ笑うと彼はもっと近づいてきて、私の髪をタオルで拭いていく。サービスって、なによ。そういうお店じゃないんだから、ただの喫茶店でしょ、ここ。そう思うのにギリシャの女神メドゥーサに石化されたみたいに体が動かない。店員さんがあんまりにも整った顔立ちをしているから、心臓が、ドキドキする。伏せがちな紅い目に釘付けになってしまう。青い髪に紅い目なんて、外国人なんだろうか。外国人の多い冬木でも、この色彩は一等珍しい。

「これでよし。風邪引かないといいな」
「あ、ありがとうございます……」

 店員さんが離れていく。店の奥に引っ込むとまた戻ってきて、なんと私の向かいの席に腰を下ろした。ティーカップが2つに、ケーキが1つテーブルに置かれる。

「あの……?」
「オキャクサマがいなくて暇だったんだよ。オレとお話ししようぜ、お嬢ちゃん。いいだろ?」

 よくない。店員の態度的に仕事をサボって客と談笑なんて許されることじゃない。この店に他に店員はいないのだろうか。店長さんとか。

「そのケーキ、オレの奢りだぜ」

 分かりました、仲良くお喋りいたしましょう。古今東西、背に腹は変えられない。おやつ時のケーキの誘惑には耐えられないのです。
 「お嬢ちゃんは大学生か?」ケーキを突きながら答える。「はい、そうです。一回生です」一口目。「専攻は?」程よい甘さが口内に広がって思わず頬が緩む。「将来的には伝記や神話研究をしようと思ってます」店員さんの長い指がカップの持ち手に絡まるのが視界の隅で見えた。「へー。ちなみに好きな神話は?」
 彼の質問に、私は間髪入れず答える。

「ケルト神話」

 彼の指先がぴくりと弾んだ。

「……いいねぇ。オレの故郷の物語だ」
「ご出身は?」
「アイルランドのアルスター」

 淀みない返事。初対面の人との会話でこんなに気を負わないのは初めてだ。きっと話力に長けた人なのだろう。言葉を引き出させるのがうまい。

「クー・フーリンが有名ですね。私も彼の話は大好きです」

 そう言うと店員さんは「そうか」とやわらかく微笑んだ。そのまるでとても愛おしいものでも見るような表情に面食らうと同時にまたもや心臓が騒ぎ出す。気のいい兄貴分のような印象を持っていたから、こんな風に穏やかな雰囲気は意外だった。不意を打たれて妙に照れてしまう。

「なまえは、」
「えっなんで私の名前知ってるんですか」
「あっと……あー、そんな顔してるじゃねえか」

 彼が視線を逸らす。どう見ても嘘だけど、追及する気にはならなかった。フォークを置いてカップに口をつける。

「貴方の名前は?」
「しがない店員の名前を知りたいのか?」
「私だけ知られているのは不公平じゃないですか」
「それもそうだな。……ま、ランサーとでも呼んでくれ」

 「ランサー、さん?」似たような響きを私はつい最近聞いたはず。あれは、確か……そうだ、士郎の家でだ。

「冬木で何か大会でもやってるんですか?」
「いきなりどうした?」
「知り合いの家にセイバーやライダーと呼ばれる方がいるので。セイバー、ランサー、ライダーってどう考えても無関係じゃないでしょう?」
「あー……ああ、そうだな。だいたいお前の言う通りだ」

 ならばランサーというのは、きっと本名ではないのだろう。槍兵、か。彼によく似合っている気がする、なんて。出会ったばかりの人にそんな根拠もないことを思う。
 ふいに雨音が止んだことに気づいて窓の外を覗けば雨は止み、うっすら日の光が差し込んでいた。遠くで虹がかかっている。
 「私、そろそろ帰ります。ケーキありがとうございました。とてもおいしかったです」席を立って出入り口へ向かう。今度、何か差し入れでも持って再び訪れよう。やっぱり奢られっぱなしは悪いし、それにランサーさんとこれっきりというのも嫌だった。

「お忘れ物はございませんか、お客様」

 ありませんと、振り返って。
 驚くほど近くにランサーさんがいてたじろぐ。反射的に下がろうとした私の腕を掴んで、彼は自分の胸へと私を引き寄せた。吐息が耳元を掠る。

「忘れ物はないか、なまえ」

 ない、と言いたいのに言えなかった。
 忘れ物ならある。私は多分、きっとすごく大切だった何かを忘れてしまった。


  
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