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初めて鬼原課長の家にお邪魔したときも、相当緊張していたけど。
今は別の意味で、いまだかつてないほど緊張している。
律儀に人形のフリを続けながらジャケットのポケットに大人しくおさまっていたアニキは、ちまっと顔を外に出して興味津々といった様子で、センス良くまとめられた広いリビングを見回していた。
「課長……あの、申し訳ありませんでした」
鬼原課長は、家に俺を連れて来るまでの間、痛いほどの力で腕を掴んだままずっと無言だった。
無造作にジャケットを脱ぎ捨てる背中に頭を下げて謝ると、振り返った男前上司は何も言わず、壊れ物を扱うようにそっと俺のジャケットを脱がせて、ソファーの背もたれにかかっていた自分のジャケットの上に投げてしまった。
布が重なり落ちる音に隠れて微かに「やんっ」という不満げな声が聞こえた気がしたので、ポケットに入っていたちびっこは一応無事なのだろう。
「俺、本当は……鬼原課長が褌兄貴だっていうこととか、ぶ……部下の人に、片想い、していたっていうこととか、全部知っていたのに、自分の正体を隠して課長を騙すようなことを……、むぉっ!?」
震える声で紡ぎ出した言葉は、最後まで続けることができなかった。
鬼原課長が、伸ばしてきた大きな手で思い切り俺のケツを揉んだからだ。
「か、か、課長?」
何故ここで、ケツを。
「本当に、夢じゃないんだな」
「俺のケツを揉んで、夢かどうか分かるんですか」
夢か現実を見極めるためだけにしては、ケツを揉む手の動きは不埒な気配を孕んでいる。
形を確かめるように双丘の谷間を撫で上げられた瞬間、下半身に生まれた甘い痺れが俺の身体から力を奪っていった。
「――初めて“はむケツ”に会ったときから、お前に似ていると思っていたが……」
「ケツが、ですか」
「ああ。まさか本当にお前だったとはな」
広々としたリビングの真ん中に立って鬼原課長と見つめ合う俺の視界の隅っこに、折り重なるように脱ぎ捨てられたジャケットの下から必死に脱出したちびっこ妖精が「ぷりんのにおい……」と、食べ物の気配に誘われるようにフラフラとキッチンに向かって飛んでいく姿が映っていたけど、今はアニキのことを考える余裕なんてなかった。
「今までのこと全部、怒ってます?」
「いや」
ケツを触っていた手がごく自然に身体を抱き寄せ、少し背伸びをすればキスができそうなほどの距離に近づいた男前上司の顔が、溶けるように甘く優しい笑みを浮かべていた。
「お前がどうしてあの格好であの店に現れたのか気にならないといえば嘘になるが、今一番訊きたいのはそこじゃない」
いつの間にかピッタリと密着していた身体はさっきからうるさいくらいお互いの鼓動が感じられて、俺よりずっと落ち着いて見える課長も緊張しているのかもしれないと思うと、自分の身体を包み込んでくれる温もりがひたすら愛おしい。
「――お前があの店で言った言葉を、信じていいんだな?」
あの店で言った言葉。
優しく耳をくすぐる低音のかすれ声に、俺は課長の目を真っ直ぐ見つめて力いっぱい頷いた。
「変な仮面で正体を隠して、騙すみたいなことをしちゃったけど……鬼原課長のことが好きだと言ったのは、本当です」
男同士でも、厳しくて怖い鬼上司でも。
表情の読みにくい顔の下に隠された不器用な優しさを知ってしまってから、どんどん鬼原課長に惹かれていく気持ちを止めることはできなかった。
もう俺は鬼原課長の運命の相手ではなくなってしまったのかもしれないけど、何も伝えずに諦めることなんてできない。
本日二度目の告白を口にした瞬間、身体を抱き寄せる腕に力がこめられ、半開きだった唇には、噛み付くような大人のキスが降ってきたのだった。
「ん、……っ」
何度も角度を変えて唇を貪りながら、男前の上司が熱い吐息を零して囁く。
「好きだ、田中」
「――!」
「一生伝えることはないと思っていた。俺は……お前が可愛くて可愛くて、仕方ない」
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