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 鬼原課長が陣中見舞いに来てくれたことで元気に復活しかけていた俺の心は、耳に飛び込んできた高めの甘いソフトボイスにあっけなくポッキリと折れてしまった。

「ケンちゃん!」

 一度は去ったと思った嵐の襲来。

 しかも、今度は最悪のタイミングでの奇襲だ。

 今この売り場で俺の味方と呼べる人は間宮さんしかいないのに、その間宮さんはどうやら話好きの老紳士客につかまってしまったらしく、日本酒コーナーに移動して接客を続けながら心配そうにこちらの様子を窺っている。

 呆然と立ち尽くす俺の前では、会計を終えたはずなのに何故かもう一度売り場に戻って来た小悪魔が、鬼原課長のもとに駆け寄ってピタッと身体を密着させ、甘えるように腕を絡ませて大きな子猫の目をパチパチと瞬かせながら課長の顔を見上げていた。

「このビール、ケンちゃんのトコロのって言ってたから、今日買いに来たらもしかしたら会えるかもって思ってたんだ。ふふ、ホントに会えちゃったね」
「クリス……」

 すごい。

 ギリギリのスキンシップと上目遣い、そして可愛い言葉のオプション。
 これで落ちない男はいないだろうという高度なテクニックに、思わず俺までキュンとしてしまう。

 男前兄貴と可愛い小悪魔が並ぶと絵になるというかひたすら目立って、売り場にひしめく男性客の視線は、いつの間にか鬼原課長とクリスさんに集中していた。

「ねえねえ、ケンちゃん」

 クリスさんの登場は予想外だったのか、珍しくあからさまに動揺して固まる課長の腕に抱き付いたまま、可愛い小悪魔は吊り上がった子猫の目をチラリと俺の方に向けて勝ち誇った笑みを浮かべた。

「その人、ケンちゃんの会社の人?」
「ああ」
「ふ〜ん……なんか、全然パッとしないから新入りのアルバイト君かと思っちゃった。さっきからボーっと立ってるだけであんまり仕事してないみたいだし。やる気ないんじゃないの? こんな人に売り場任せちゃって大丈夫なのかな」

 ……顔は可愛いけど、普通に性格が悪いな、この人。

 確かに今日は色々と思い悩むことは多くて油断すると集中力が途切れがちになりそうだったけど、売り場に立つ者として精一杯の仕事はしてきたつもりだ。
 というか、そもそも手を抜く余裕なんて俺にはない。

 身に覚えのない告げ口をされて、それでも一応客であるクリスさんの言葉を頭から否定する訳にもいかず、“違います”という意思を全面に押し出した顔を課長に向けると、鬼原課長は困った顔でクリスさんの頭をポンと軽く叩いた。

 あの、大きくてあたたかい手が。
 サラサラしたクリスさんの髪を撫でるように、頭の上に置かれている。

 あの手に甘やかされる権利を独り占できるクリスさんがうらやましくて、胸の奥底から湧き上がるドロドロした気持ちに、涙があふれてしまいそうだった。

「田中のことは信頼している。客に怖がられて最前線では足手まといにしかならない俺よりよっぽど売り上げに貢献してくれる、頼りになる部下だ」

 頼りになる部下。

 鬼原課長にとって、俺はもう、それ以上でも以下でもない、それだけの存在になってしまったんだ。

「ふうん……ま、いいけど。それより、せっかく会えたんだからちょっと一緒にお店を見て行こうよ。上の階に入ってる下着屋さん、すごい人だかりで僕一人じゃ入れなかったんだよね」
「おい、俺は仕事中だ」
「ちょっとくらいいいじゃん。ね〜行こうってば〜」

 目の前で繰り広げられる会話はまるでデート中のカップルのようで、さっきまで一瞬浮上しかけていた心はもう、絶望的に深いところにまで沈んでしまっている。

 何とかクリスさんを宥めて上の階に送り出した鬼原課長は、下着屋での買い物だけには付き合ってあげることにしたらしく、ポーカーフェイスが常のこの上司にしては珍しく気まずそうな顔で俺を見下ろして、さっきクリスさんにしたのと同じように大きな手を頭に軽く乗せてきた。

「さっきのアレは気にしなくていい。この前電話をかけてきた趣味仲間なんだが……人の好き嫌いが激しくて、悪気なくああいうことを言う奴なんだ。お前がしっかり頑張っているのは分かっている」

 こういうフォローも、この後課長がクリスさんのところに行ってしまうんだと思うと、何だか惨めで悲しいだけだ。

「鬼原課長」
「ん?」
「趣味って、何ですか」

 言ってくださいよ、課長。
 あのお店のこと。褌仲間のこと。“はむケツ”のこと。

 俺は、はむケツとしてじゃなく、田中一郎として、課長のすべてを知りたいんです。

「さっきの人のワガママに振り回され続けてもいいって思うくらい、大事な物ですか」

 鋭い瞳を真っ直ぐに見上げる俺の目を見つめ返さずに、鬼原課長はどこか遠くを見つめて低い声で呟いた。

「そうだな。お前には理解してもらえないだろうが……俺には、大切な物だ」

 その答えを聞いた瞬間。

 俺は、鬼原課長との自分との間を分厚い壁が隔ててしまったように感じて、全身がひんやりと冷たくなった。


 心の中で呼び続けても、アニキは帰って来ない。

 今さら自分の気持ちに気付いても、鬼原課長はもう振り向いてくれない。

 この広い世界に自分だけが一人取り残されてしまったような寂しさと不安の中で。

 俺は、一つの決意を胸に抱いていた。

 このまま、何もしないで逃げちゃ駄目だ。
 ちゃんと鬼原課長に自分の気持ちを伝えないと、いつまでもこの恋を終わらせることができない。

 好きだと伝えて、信じてくれるかどうか分からないけど、はむケツは俺だと告白して。
 それでフラれてしまったら、帰ってきたちびっこ妖精に、頑張ったけど駄目だったと報告しよう。

「――頑張れ、俺」

 萎えかけていた心は再び力を取り戻し、褌を締めたときのように凛とした気力が全身にみなぎっていた。




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