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 都会に舞い降りた誘惑の小悪魔。

 基本的に男には何の興味のない俺でも、一瞬変な気分になってしまいそうなほどの色気を振りまいている男の名前は……。

「た……太三郎!」

 栗栖太三郎。

 インパクトのあるその名前をうっかり口に出してしまった瞬間。
 限定缶のノベルティセットを手に取っていたイケメン小悪魔の顔に、分かりやすく怒りの色が表れ、細い眉と子猫の目がキュッとつり上がった。

「その名前で呼ぶな! っていうか、何でいきなり下の名前呼び捨てにすんの!? アンタ僕のお母さんか何かなワケ?」
「はっ! 申し訳ありません」
「いきなりそんな風に呼ぶ奴とか初めてなんだけど!」

 キャンキャンと甲高いクリスさんの声は、アニキの怪しげなスプレーで変化させられた後の俺の声によく似ている。
 これなら、鬼原課長も違和感なく偽物の“はむケツ”を本物だと信じることができただろう。

 不機嫌丸出しの様子で「信じられない!」とぶつぶつ呟いていたクリスさんは、突然名前を呼び捨てにしてしまったことを詫びる俺の顔をしばらく値踏みするように観察して、やがて勝ち誇った顔で笑い、綺麗なその顔を俺に近付けてきた。

「――ふうん……」
「な、何ですか」

 血色の良いぷるんぷるんの唇が至近距離にあって、そもそも女の子とだってそういう経験がほとんどない俺は、相手が男だと分かっていても何だか落ち着かない気分になってしまう。

 雑誌で見たときから華やかなオーラを放っていたクリスさんの顔は、間近で見てもやっぱり可愛い。
 肌なんか妙にきめ細かくて、一体何を食べて育ったらこんなにまつ毛が長くなるんだろうと不思議なくらいだった。

「やっぱり、あの夜変なハムスターの覆面で『CLUB F』に来てた人でしょ。僕のこと、知ってるみたいだね」
「!」

 あの夜、慌てて褌と覆面を脱ぎ捨てて帰る俺の姿を見ていたクリスさんは、すぐに俺があの時の“はむケツ”だと気付いたらしい。

「地玖ビールの商品を売ってるっていうことは、もしかしてケンちゃんと同じ会社の人?」
「……ケンちゃん、って、誰ですか」
「キハラケンジ、だからケンちゃんでしょ。同じ会社で働いてるのに下の名前も知らないの」

 下の名前は知っていても、その呼び方は違和感が有り過ぎる。

 本職の極道もビビッて道を譲るようなコワモテの鬼課長が、ケンちゃん。

 俺がそんな風に課長を呼んだら、絶対にあの地を這う重低音のハスキーボイスでお説教をくらうのに、クリスさんはそんな可愛らしい呼び方で課長を呼ぶことが許されているんだと思ったら、何だか言葉に表せないモヤッと感が俺を包み込んだ。

「なるほどね〜。ケンちゃんに片想いして相手にされないからって、インパクト狙いであんな格好であの店に来たのかもしれないけど、残念だったね。今さら本物の“はむケツ”を名乗っても僕が相手じゃ勝ち目ないって、分かるでしょ」 
「あの、クリスさん」
「今まで“未成年には手を出さない”とか言われてスルーされちゃってたけど、二十歳になったら、ようやくケンちゃんも僕のこと真剣に考えてくれる気になったみたい。携帯の番号も教えてくれたし、この前は買い物にも付き合ってくれたしね」
「買い物って、褌ですか」
「僕が褌なんて買う訳ないでしょ、それは単なる口実。……あ、もしかして、あの時ケンちゃんが言ってた“部下”ってアンタのことだったんだ。僕の用事、優先させちゃってごめんね?」

 わざとらしく小首を傾げる仕草が可愛いから、許すけど。
 何ですかこの安い昼ドラみたいな修羅場展開は。

 ここはデパートの酒売り場で、俺は今仕事中だというのに、こんな絡み方をされても困る。
 間宮さんなんて、もうどうしていいか分からなくてぴよぴよ動揺しちゃってるじゃないか。

「とにかく、アンタがどう頑張ったって無駄なんだから、僕の邪魔しないでよね」
「そんな……」
「今まで特定の相手は作らない主義だったけど、ケンちゃんクラスの男だったらちゃんと付き合ってもいいかなってくらい気に入ってるんだから」

 付き合ってもいいかな、だなんて、まるで鬼原課長の方が熱烈にクリスさんを落としにかかっているかのような発言だ。
 さすが、イケメン小悪魔は言うことが違う。

 もしかしたら、俺が知らないうちに鬼原課長の心はそこまでクリスさんに惹かれてしまっているのかもしれないと思うと、心臓が押しつぶされてしまいそうだった。

 ゲイではないはずの俺でも、際どいデザインのミニトートバッグを大切そうに抱えるクリスさんの細くて白い指が、バッグに印刷された股間付近に触れているところを見ると何だかドキドキしてしまうくらいだから、元々同性を恋愛対象にする鬼原課長から見たら、栗栖さんと俺では一流シェフが作った超高級料理とコンビニ惣菜くらいの差があるだろう。

「変な真似したらタダじゃ済まないから。身の程をわきまえてよね、ハムスター君」

 ふふん、と勝ち誇った顔で笑ってそう言い残し。

 都会に舞い降りた誘惑の小悪魔は、ノベルティセットを手にいそいそとレジへと向かって行ったのだった。



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