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「今のお電話、もしかしてデートのお誘いとかですか」
電話の向こうの相手が、どうしても課長が来てくれないと嫌だと拗ねている気配を感じて、何となく訊いてみると、鬼原課長の大きな身体は一瞬バランスを崩してグラリとよろめいた。
「だっ、大丈夫ですか課長!?」
「……大丈夫だ」
この動揺の仕方。
もしかして、図星だったんだろうか。
湧き上がる嫌な予感に、引っ込んでいた涙が再び溢れてしまいそうになる。
「そういう色っぽい相手じゃない。そもそも、俺にそんな相手がいないのはお前も含めて会社の連中も気付いているだろうが」
「それは……鬼原課長はいつも仕事熱心だから、恋人に割く時間がなさそうだなって思わない訳じゃないですけど。でも課長くらいイイ男だったら、たまにしか会えなくても付き合いたいっていう人はたくさんいるでしょうし」
ちょっと前の俺は、鬼原課長が仕事熱心なあまり女性に何の興味もない童貞なんじゃないだろうかと失礼なことを考えていたりしたけれど。
恋人でも何でもない俺のためにわざわざこうして貴重な休日を潰して丁寧にパソコンの個人指導までしてくれているんだから、実際に誰かと付き合うことになったらしっかり大切に甘やかすタイプなんじゃないだろうかと、今なら思うことができた。
「無理に気を遣わなくていい。今のはただの、最近知り合った趣味仲間だ」
「趣味仲間?」
「ああ」
その言葉に、真っ先に浮かんだのはやっぱり、小悪魔系男子クリスさんの顔だった。
最近知り合った、ということから考えても、電話の相手はクリスさんでほぼ間違いない。
いつの間にか、課長とクリスさんは携帯の番号を教え合っていたんだ。
休日に、呼び出しがかかるくらい仲良くなっていたんだ。
「ふんど、いや、趣味の道具の買い出しに付き合って欲しいと泣きつかれて、断れなかった」
今、絶対に“褌”って言いかけましたよね、課長。
この前“はむケツ”にオススメしていた下着屋さんで、褌のお買い物ですか。
可愛い小悪魔の笑顔で課長に甘えるクリスさんと、そんなクリスさんを優しく見守りながら一緒に買い物に付き合う鬼原課長の姿が目に浮かんで、俺の気持ちは絶望的に暗くなった。
「先約だったのに、すまないな」
呆然と固まる俺の頬にもう一度手を伸ばして、乾いた指先で涙の跡を拭い、男前上司が困ったような顔で笑ってため息をつく。
「最初は一人で店に入るのも勇気がいる趣味だから、せっかく興味を持ってくれた新しい仲間を放ってはおけなくてな。お前も休日にあまり詰め込むと疲れるだろう。とりあえず、今日はここまでだ」
鬼原課長が、褌デビューしたばかりの“はむケツ”を優しく気遣ってくれていたことは分かる。
課長のそういう面倒見の良さが好きで、今の俺はまさにその優しさに甘えちゃっている状態なんだけど。
俺以外の誰かに、鬼原課長の優しさが向けられるのが、堪らなく辛い。
ジャケットを持って立ち上がろうとする課長のシャツを思わずキュッと握って、俺は男前上司の顔を見上げた。
「課長……ご飯だけでも、食べていきませんか」
「……」
「この前課長に褒めてもらえて嬉しかったから、俺、あれからちょっと手料理の練習も頑張ったんです。今度はこの前よりもっと美味しく……」
行かないで。
俺を一人ぼっちにして、クリスさんの所になんて行っちゃ嫌です。
シャツを握りしめたまま、じわじわと込み上げる言葉にならない声を押し殺して一生懸命自分を引きとめようとする俺を見下ろして、鬼原課長は何かを言いかけ、両腕を伸ばして大きな身体ですっぽりと俺を包み込むように抱きかかえた。
「か、課長?」
心地好い熱に包まれて、逞しい腕と胸に甘やかされる感覚が堪らない。
突然俺を抱きしめた男前上司は、大きな手で子供をあやすように優しく髪を撫でて、ゾクッとするような低く甘い声で囁いた。
「――友人の帰省で心細くなっているお前につけ込むような真似はできないからな」
「??」
「これ以上居るとヤバそうだ、今日は帰る。メシはまた今度ご馳走してくれ」
「帰……っちゃうんですか」
西洋人でもないのに、大袈裟に抱擁で別れを惜しんでいるみたいなこの状況に動揺しつつ顔を上げると、キリッと凛々しい男前上司の眉が困ったように寄せられ、伸びてきた手に軽く鼻先を摘ままれてしまった。
「きちんと戸締りをしろよ。知らない男が訪ねてきてもドアを開けるな」
「課長……いくら何でもそこまでガキじゃないですよ俺!」
突然過保護な親のようなことを言われて頬を膨らませると、鼻先を摘まんでいた手が、今度はぷっくりと膨らませた頬を挟み込んだ。
「こうしてむくれていると、まるでハムスターだな」
「……」
「あまり頬袋を膨らませると破裂するぞ」
そうですよ。
俺が、あの夜貴方にキスをして逃げたハムスターです。
あのハムスターは、クリスさんじゃないんです。
声はちょっと違うけど。
俺とお尻が似てるって、言っていたじゃないですか。
もう、すべてを打ち明けてしまおうかと思いながらも勇気が出せず、膨らませた頬を包み込む大きな手の温もりにうっとりしているうちに。
鬼原課長は微かに唇の端を上げ、頬から離した手でワシャワシャと俺の頭を撫でて立ち上がり、「またな」と言い残して帰ってしまったのだった。
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