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 頬に触れた熱い指先を通して、鬼原課長に俺の鼓動が伝わってしまいそうだ。

 驚きと、それ以外の忙しい感情で、涙は完全に止まっていた。

「田中」
「は、はいっ!」

 元々狭い部屋の中、小さな座卓にパソコンを置いて男二人でその前に座っていたせいで、鬼原課長と俺との距離は極端に近い。

 課長の顔は至近距離から眺めてもまったく隙のない男前ぶりで、シュッとした鼻筋と鋭い瞳がいかにも生真面目そうなストイックな二枚目感を漂わせていた。

 この男前上司が、ラフな白シャツの下に隠された逞しい肉体を惜しげもなく晒して、ゲイの皆さん達の視線を釘付けにする褌兄貴の顔を持っていることを、俺は知っているんだ。

 滅多に感情を表さない凄味のある二枚目顔の下で、本当は動揺していたり、いつも誰かを優しく見守ってくれていることだって、知っている。

 頬に当てられた手の熱が心地よくてうっとりしていると、いつの間にか鬼原課長の顔がいまだかつてない距離にまで接近していて、ありえないシチュエーションに俺は硬直したまま何も言えなくなってしまった。

 何これ。
 何なの、この状態。

 今の俺は、鬼原課長が褌好きのゲイ仲間だと思っている“はむケツ”でも、“はむケツ”になりすましたクリスさんでもなくて、田中一郎なのに。
 鬼原課長の運命の六尺褌の相手は、もう俺じゃないのに。

 何でこんな、キス寸前みたいな雰囲気になってるんだ。

「お前を泣かせるような奴のことは忘れろ」
「き、きはら課長……」
「不安丸出しで泣きそうなその顔は嫌いじゃないが、俺以外の男がお前にそんな顔をさせるのは気に入らん」

 低くかすれた声と共に、吐息までかかりそうな程に近づいた、精悍な顔。

「――田中、俺は……」

 頬に添えられた手に促されるままに、近付いてきた俺は鬼原課長の唇を待ち受けるように顔を上げて……。

「……」
「……」

 これってもう本当にキスしちゃうんじゃないの、というギリギリのところで何とか唇が触れなかったのは、静かだった部屋に無機質な着信音が鳴り響いたからだった。

 俺の着信音はアニキが勝手に操作して訳の分からないヒーローもののオープニングテーマか何かに設定していたから、この音は鬼原課長の携帯だ。

 すぐには反応せず、何を考えているのか分からない相変わらずのポーカーフェイスで固まっていた鬼原課長が「すまない」と一言落として静かに俺から身体を離し、短く息を吐いて、ソファーの背もたれにかけてあったジャケットからスマフォを取り出し、何事もなかったかのように応対を始めてしまった。

「どうした?……ああ、今は……いや、出先にいるから後でかけ直す」

 今のは……本当に何だったんだろう。

 すまない、と言っていたのは、電話に出ることに対しての「すまない」なのか、それとも、今の何とも言えない雰囲気に対する「すまない」?

 まだバクバクとものすごい勢いで脈打つ心臓を鎮めるように、こっそり深呼吸する俺の隣で、鬼原課長は電話の相手とのやり取りを続けていた。

「そういうことじゃない、部下の家だ。……ああ?……あの店に?」

 どうやら、相手はなかなか鬼原課長を離してくれないらしく、困った様子でしばらく話していた課長は、小さくため息をついて「分かった」とだけ言うと、ようやく電話を終えて俺の方に向き直った。

「悪いな、急に用事が入った。この続きはまた来週にでも説明する。資料は置いていくから、分からないところは……いつでも聞いてくれ」

 分からないところって。

 今のあれは何だったんですか、課長。



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