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 突然飛び出してきた影武者という言葉の意味が分からず首を傾げると、橘課長の隣にちょこんと腰を下ろした間宮さんが心配そうに身を乗り出してきた。

「田中さん、ケンジさんにキスして逃げちゃったあの夜、ハムスターの仮面と褌はどうしたんですか」
「っ! あの、あれはキスっていうか、理由があって……」
「ヤっちゃったことの理由とかはいいですから。仮面と褌、どうしたのか答えてください」
「ええっ! そんな、どうしたかって言われても、あの夜の記憶が……曖昧で」
「手元にはないんですね」

 癒しの天使だと思っていた間宮さんにこうもバッサリと切り捨てられてしまうと、涙が出そうになる。
 実はこの人、ふんわりピヨピヨしていそうに見えて、中身は橘課長に負けないレベルの男気系兄貴なのかもしれない。

「落ち着け間宮。お前がはむケツを追い詰めてどうする」

 どうどう、と隣から橘課長になだめられて、半分腰を浮かせかかっていた間宮さんはようやく我にかかったらしく、小さく「すみません」と謝り、ピヨピヨの口を尖らせて腰を下ろした。

「そういえば……今まで思い出しもしなかったんですけど、ハムスター覆面と褌、店のロッカールームに脱ぎっぱなしにして忘れてきました」

 鬼原課長にキスをしてしまったという自分的大事件で頭がいっぱいになって、今まで忘れていた。

 あの夜俺は、課長が追ってくる前に何とか逃げ出そうと、大慌てで着替えて釣りももらわずに帰ってきてしまったのだ。
 動揺のあまり、脱ぎ捨てた褌と覆面を持ち帰ることすら忘れてしまっていた。

 覆面はともかく、締めた後の褌を忘れてきてしまうなんて恥ずかしくて申し訳ない。

 恐る恐る、応接テーブルの向こうに座る橘課長と間宮さんの顔を窺うと、二人はお互いに顔を見合わせ、無言で頷いて同じタイミングでため息をついていた。

「あの……ご迷惑おかけしちゃって申し訳ありません。やっぱ褌と覆面、取りに行かなきゃまずい……っす、よね」
「そういうことを言ってる訳じゃねえんだよ」

 ソファーにどっかりと腰かけた極道の幹部にしか見えない橘課長が、苦々しい顔でもう一度深く息を吐いて、獲物を狙う猛禽類の目を鋭く光らせながらゆっくりと身を乗り出す。

「あの夜、ケンジが“はむケツ”を捕まえた」
「え?」

 鬼原課長が“はむケツ”を、捕まえた?

 あの夜、大慌てで着替えた俺がロッカールームを出るまでの間、鬼原課長が俺を追ってきた様子はなかったし、着替えを見られたということもないはずだ。
 それに、会社での鬼原課長の態度を見る限り、俺がはむケツだということに気付いていそうな雰囲気はまったくないし。

「いきなり“はむケツ”に襲われて、突然の出来事にしばらく固まってたらしいんだが、一応、さっきのアレが何だったのか問いただすつもりで後を追ったらしい」
「もしはむケツさんが自分に好意を持っていたなら、ちゃんとお断りしなきゃと思って後を追ったんですよ。ケンジさん、田中さん以外の誰かに手を出したりする人じゃないですから」

 そこまで言い切った後で、間宮さんがチラリと隣に座る上司の顔を見て「誰かさんと違って」と付け加えたひと言に、橘課長が何も飲んでいないのにむせ返り「俺が遊んでいたのはお前と出会う前の話だ」と、なるべく俺に聞こえないように小さな声で反論する。

 あまりにも二人がお似合いすぎて、この場に俺が座っているのが申し訳ないくらいだ。
 今の俺には、二人を包み込む甘く幸せな空気が辛い。

 男同士とか、上司と部下とか、つまらないことにこだわらないで鬼原課長のことだけを考えることができたら、俺も間宮さんのようになれていたんだろうか。

 運命の六尺褌が消えてしまってから、こんなことを考えてももう遅いのに……。

「とにかく、ですね。そこで、ケンジさんは着替えを終えてハムスターの仮面を手にしていた素顔の“はむケツ”さんに出会っちゃったんですよ」
「いや、出会ってませんよ。俺ソッコーで帰りましたし」
「出会っちゃったんです! 田中さんじゃない、偽物の“はむケツ”さんに!」
「ニセモノ!?」

 俺の、というか“はむケツ”の偽物になることに、何の意味があるんだろう。
 その偽物は、一体何を考えているんだ。

 疑問だらけで何も訊けずにいる俺に、橘課長がスーツの胸ポケットから取り出した一枚の写真を見せてくれた。

 ファッション雑誌か何かの切り抜きらしきその写真には、『都会に舞い降りた誘惑の小悪魔 クリス(20)』という何とも恥ずかしいキャッチコピーとともに、読者モデル慣れしていそうな男がアイドルのようなぶりっ子ピースでウインクして写っていた。

 クリッとした二重の目に、長いまつ毛。
 ふわっと柔らかそうなくせ毛風の茶髪が、色白の肌によく似合っている。

 羨ましいことに、イケメンだ。
 小悪魔系男子というか、こういうタイプは男女問わずモテるだろう。

「栗栖太三郎、通称クリス。ゲイ仲間の間では有名な厄介者だ」
「ぶっ! クリスって、苗字の方なんすか! しかも名前、太三郎……っ、いや、俺も田中一郎なんで、人のことは言えないんですけど、栗栖太三郎……!」
「おい、俺の話を聞け」

 俺はどこにでもいるごく普通の地味系だから田中一郎という名前がむしろ合っているけど、クリスさんの場合は顔がアイドル張りのキラキラ系イケメンだけに、名前の破壊力が強すぎる。
 というか、苗字と名前、顔のギャップがすごい。



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