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アニキと出会う前の俺は、何て味気ない毎日を過ごしていたんだろう。
あのちびっこ妖精がいないだけで、日常生活が恐ろしく静かで、物寂しい。
限定商品の販売キャンペーンに向けて着々と準備を進めながら、俺は急に自分が一人ぼっちで世界に取り残されたような心細さを振り払うように、ぷるぷると首を振って自分に気合いを入れた。
「どうした、田中」
「はっ、いえ! 何でもないです!」
課長席から飛んできた声にシャキッと背筋を伸ばして答え、外勤用の資料を鞄に詰め込む。
今までと同じようにさりげなく俺を気遣かってくれる鬼原課長と俺の間を繋いでいた真っ白な布が、跡形もなく消え去ってしまっているのを意識させられて、どうしようもなく胸が苦しかった。
鬼原課長の運命の相手はもう、俺じゃないんだ……。
アニキがいないので確認することはできないけど、あれ程固く結ばれていた『運命の六尺褌』が消えてしまったということは、課長が心変わりして、俺以外の誰かを好きになったということなんだろう。
確信はないけど、考えられるきっかけは一つ。
あの夜“はむケツ”が“ケンジさん”にしたキスだった。
もしかして鬼原課長は、あれがきっかけで“はむケツ”を意識し始めちゃったんじゃないだろうか。
あんなことがあった後も、当然のことながら、次の週に出勤してきた鬼原課長は褌兄貴のフェロモンをまったく感じさせない、相変わらずのストイックな鬼上司っぷりで淡々と仕事をこなしていたけど、時折小さくこぼすため息に、俺は気付いていた。
“はむケツ”は、俺じゃない。
しかも、俺はもう二度とあの姿で課長の前に現れるつもりはなかった。
アニキのためじゃなく、“はむケツ”としてでもなく。
いつも鬼原課長に叱られながらも面倒を見てもらっている部下としてでもなく。
ただ、一人の男として、鬼原謙二という男のことを考えようと思っていたのに。
もうその必要もないということか。
「田中、何を考えている?」
「はいっ!?……あ、いえ、何も……」
まさか「課長のことを考えていました」とは言えずに口ごもる俺に、課の先輩達がどっと笑う。
「田中ちゃん、そこは何も考えてないなんて正直に答えちゃ駄目でしょ」
「申し訳ありません」
「鬼原課長のカミナリ待ちとしか思えないボケっぷりだね」
「さては最近課長に叱られてないから寂しいんだなお前」
確かに。
前はあんなに怖いだけだった鬼原課長のカミナリが、今は少しだけ恋しい。
いつものように先輩たちに弄られる俺に、鬼原課長は迫力のあるポーカーフェイスのままボソリと指示を出した。
「――早く行け。打ち合わせに遅れるぞ」
「うわ、ヤバい! 『プラザ801』渠須北店に行ってきます!」
怒っているのか、呆れているのか。
『運命の六尺褌』がないと、鬼原課長が何を考えているのかなんて、俺には分からない。
「早く戻ってこいよ、アニキ……」
ここにあのやんちゃなちびっこがいれば、心がほっこり癒されるのに。
橘課長と間宮さんが待つ『プラザ801』渠須北店に向かう俺の足取りは当然重く、吹き付ける北風に、心は凍えてしまいそうだった。
○●○
『プラザ801』の創業記念オリジナルビール販売のため、研修も兼ねた詳細打ち合わせを行う、というのが、今回の予定だったはずだ。
――が、『プラザ801』渠須北店に到着して総務課に挨拶に顔を出した俺は、ヤクザ顔の男前総務課長・橘課長に問答無用で連れ去られ、会議室という名の密室に放り込まれてしまった。
「ダメですよ課長! またそうやって田中さんを怖がらせて!」
せめてもの救いといえば、この空間に俺とヤクザ顔兄貴の二人きりではなく、間宮さんがいてくれることだろうか。
スーツを着ていてもどこかぴよケツ感が漂う癒しの天使間宮さんに責められ、一応ひと呼吸置いて落ち着いた後で、橘課長は応接ソファにどっかりと腰を下ろして鋭い猛禽類の瞳で俺を睨んできた。
「お前は……何のつもりで、あんな厄介な影武者を立てやがったんだ」
「――影武者?」
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