6


 ――と、次の瞬間。
 がっしりと俺の肩を掴んだ大きな手が、ものすごい力強さで、密着した身体を引き剥がした。

「な、……何を……」

 信じられない、といった顔で俺を見下ろす鬼原課長が、動揺のあまり上擦った声で呟いたのをきっかけに、静まり返っていたフロアには野太い歓声が上がり、店内に爆発的な賑わいの波が訪れた。

「おおお、はむケツがケンジ兄貴を襲ったぞ」
「やるな、はむケツ!」
「勇者だ」
「真の男だ」
「とりあえずはむケツの男気に乾杯!」
「乾杯!」

 盛り上がるだけ盛り上がって勝手にあちこちで乾杯を始めてしまった常連の兄貴たちのノリとは対照的に、鬼原課長はまだ固まったまま、何も言ってくれない。

 視界の端では、何故か悪役レスラー顔のマスターが赤くなって、もじもじそわそわと落ち着きなくカウンターテーブルの向こう側を歩き回っていた。

 好きでもない男にいきなりキスされたんだから、怒ればいいのに。
 いつもの地を這うハスキーボイスで「ふざけるな」って、“はむケツ”に言えばいいのに。

「いちろ、いちろ! みて……これ!」

 再び湧き上がってきたモヤモヤ感をどうすることもできず、硬直した鬼原課長を見上げて立つ俺の前に、大きな目をキラッキラに輝かせたやんちゃ坊主が飛び出してきて、大興奮した様子で小さなカードを掲げて見せてきた。

「桃ポイントがいっぱいなの! いちろがかちょーさんにちゅーしてくれたからだよ!」

 小さなカードには、ずらりと並んだ桃のマーク。
 ポイントが貯まったからなのか、カードがほんのりと薄桃色の光を放って輝いている。

「これで……ちょっとの間だけ、おうちに帰れるね。いちろのおかげだね」

 じんわりと感激した様子で小さなカードを大切そうに握りしめるアニキに、今自分が置かれている状況も忘れて、胸の奥がじんわり熱くなった。

 勇気を出して鬼原課長にキスをすることができて……このちびっこを、里帰りさせてやることができて本当によかった。

 褌妖精の国とやらに一体どうやって帰るのかと思いきや、アニキは鼻息をふんふんさせながら褌の中から小さなスマフォらしき何かを取り出し、「あっ、もしもし! えっと、にんげん界のかれす地区にある『CLUB F』っていうお店まで一台おねがいします。はいっ、桃ぽいんと利用します!」と、早速どこかに電話をかけ始めた。

「えっと、じゃあ、ちょっとだけ行ってくるけど、またすぐ戻るから。まっててね」

 どうやら妖精の国には、ポイントを利用できるタクシーのような何かで帰るらしい。
 もう、何から何まで突っ込みどころが多すぎて、今更何かを言う気にもなれない。

「いちろ、ありがと。すき! いちろだいすき! いってきます!」

 呼び出したタクシーらしき何かはどこに停まるのか。
 柔らかそうな桃色の尻をぷりっとさせて、やんちゃなちびっこ妖精は小さな手をぶんぶんと振り、元気よくフロアの外へと飛んで行ってしまった。

 俺だけにしか見えない小さな妖精が嵐のような勢いで去ってしまった後には、当然、現実だけが残る。

「――何の、つもりだ」
「!」

 聞き慣れたハスキーな声に、背筋は自然にピンと伸びた。

 そうだった。
 俺は……というか、はむケツは、何の脈絡もなしにいきなり鬼原課長にキスをしちゃったんだ。

 何としてでも今日中にキスを、と思って焦っていたから、何のフォローも考えていなかった。

「お前は、一体……」

 怒っている風ではなく、戸惑いの色を含んだ低いハスキーな声。

 まだ呆然とした様子の鬼原課長が、大きな手をゆっくりとハムスター覆面に伸ばしてきた瞬間。
 覆面を外されてしまう、と思った俺は、くるっと身体の向きを変えて、フロアの出口に向かって全力で走り出していた。

「待て、――はむケツ!」

 どうしよう。
 どうしたらいいんだろう。

 もう二度とはむケツの姿で課長に会わないとはいえ、橘課長や間宮さんは俺の正体を知っているのに。よく考えたら、とんでもないことをしてしまった。

「ああああ……どうすんの俺!」

 走って、走って、光の速さで着替えてお釣りを受け取りもせずに店を飛び出して。

 タクシーに乗って家に帰り着いたときには、身体中から変な汗が噴き出していた。

 こんなとき、のんびりした声で「酔っぱらってるのに走っちゃだめ!」なんて言ってくれるちびっ子妖精がいないのは少し寂しい。

「鬼原課長、びっくりしただろうな……」

 久々に一人きりの静かな部屋で倒れこむようにしてソファーに腰を下ろし、深く息を吐いた俺は。

 心臓が止まったような衝撃を受けて、そのまま呼吸を止めた。

「え……!?」

 そこにあるはずのものが、ない。

 今までなら、どんなに遠く離れていても、真っ白に伸びた『運命の六尺褌』が包み込むように俺を守ってくれて、鬼原課長の小さな動揺や温かい気持ちを伝えてくれたのに。

 何度見ても、何も見えない。
 震える右手で、左手に触れてみても、やっぱり何もない。

「そんな……どうして……」

 左手の薬指に巻き付いていたはずの『運命の六尺褌』は。
 いつの間にか、跡形もなく消え去ってしまっていたのだった。



(*)prev next(#)
back(0)


(49/89)
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -