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○●○


 ついに来てしまった……この夜が。

「いちろ、ほんとにいいの?」

 鏡の前をふよふよ飛びながら、珍しくしおらしげに俺の顔を見上げるちびっ子妖精の頬を指先で軽く突いて、俺は床に置いてあった薄桃色の褌を拾い上げた。

「今更何だよ。桃ポイントとやらを貯めて国に帰りたいんだろ」

 一時的にではあっても、褌妖精の国に帰れるかもしれないと大喜びしていたアニキが、ここにきて急に大人しくなってしまうなんて。

 ぷにぷにと頬を突き続けると、アニキは小さな手で俺の指をキュッと握って「だって!」と言い出しにくそうに口を開いた。

「いちろは、かちょーさんにウソをつくのが嫌なんでしょ? だから……この前の、あのハムスターの格好でかちょーさんのお尻にちゅーをしたくないんだよね」
「……まあ、嘘をつくのが嫌とかそういう以前に、そもそも鬼原課長のケツにキスしたいとは全然思わないけど」

 逆に、課長のケツにキスをしたいと思っている方が怖すぎる。

「んっとね、おれ、桃ポイントでちょっとの間だけでも国に帰って、みんなに会えたらいいなって思ってたんだけどね。でも、いちろーが本当に嫌だなって思ってることはしてほしくないの」
「アニキ……」
「だから、今夜のお出かけはやめようよ」

 小さな羽根を一生懸命羽ばたかせて薄桃色の布を引っ張り、俺の手から奪い取ろうとするちびっ子があまりにも健気で、俺はアニキの小さな身体をそっと摘み、両手の上にちょこんと乗せてやった。

「ガキんちょのくせに変な気使うなっての」
「がきんちょじゃないもん!」
「こんなぷにぷにのケツで何言ってるんだよ」
「やんっ! いちろいじわる! お尻さわっちゃだめっ!」

 食いしん坊で、悪戯好きで、いつも元気過ぎてうるさいくらいで。
 出会ったときは妖精だなんて信じられなくて幻か何かじゃないかって思ったし、そのやんちゃっぷりには毎日振り回されてばかりだけど。

 アニキは、俺の大切な相棒だ。

 ただしょぼくれてつまらない毎日を過ごしていた俺が、少しずつ変わり始めたのは、このちびっ子妖精のお陰だから。
 アニキが俺の前に現れてくれなかったら、鬼原課長はまだ俺にとって怖くて厳しい鬼上司で、本当の優しさに気付けないままだったから。

 若干空回り気味だけど、いつも小さな身体で俺のために一生懸命頑張ってくれているアニキに、今度は俺が恩返しをする番だ。

「大丈夫だって。明日からはもう、このハムスターの被り物では鬼原課長に会わないから」
「でも……」
「お前がしょぼくれた顔するなよ」

 俺がはむケツだということは、橘課長にあっという間にバレてしまった。

 鬼原課長の気持ちを知っているのに、これ以上課長に隠し事を続けて騙すようなことをするのは辛いけど。
 今夜だけは、アニキのためにもう一度はむケツになって、何とか事故を装い鬼原課長にキスをしようと、俺は決めていた。

「国の仲間たちに会いたいんだろ」
「うん……でも」
「家族も友達も、お前に会えたら喜ぶんじゃないのか」
「そうだけど、でもいちろーが嫌なのはおれも嫌なの」

 このやんちゃなちびっ子を、故郷に返してやりたい。

 そして、アニキが無事に一時帰国できたら……。
 ちょっと休んで、ゆっくり鬼原課長のことを考えようと思った。

 アニキのためじゃなくて、俺がどうしたいのか。

 ちびっ子妖精のいない日常で、ちゃんと、鬼原課長のことを考えたかった。

「課長だって、ちゃんと理由があることなら多分許してくれるし……俺はどうしても嫌だっていう訳じゃないから」
「ほんとに? ほんとに嫌じゃない?」
「嫌じゃないって。ポイントが貯まってお前が一時帰国できたら俺も嬉しい。ほら、今日は自分で締めるから、締め方教えろよ」
「……うん、分かった! いちろ、ありがと!」

 窓の外には、夜の街。 

 大きな目をキラキラと輝かせ、張り切って褌の締め方を説明し始めたアニキの様子にホッとしつつ。
 俺は、鬼原課長へと続く真っ白な六尺褌を見つめ、心の中で小さく、ごめんなさいと謝ったのだった。



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