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○●○
緊張感というものは、このやんちゃ坊主とは無縁のものなのかもしれない。
「この前のソーセージ美味しかったから、また食べたいね」
「今くらいソーセージ以外のこと考えろよ」
「ソーセージ以外といえばね、このおみせ、甘いもの系のメニューもかなり美味しくて充実してるみたいだったよ!」
「……」
ロッカールームで誰かに素顔を見られたりしないようにと手早く覆面を装着して、あやしげなハムスターの被り物に薄ピンク色の褌一丁という微妙な姿になった俺の前をふよふよ飛びながら、ちびっこ妖精はよだれを垂らさんばかりの勢いでうっとりと、前回来たときにつまみ食いしまくったらしい食い物の名前を並べていた。
アニキまで変に緊張してしまったら、俺も今以上にガチガチに身構えて何もできなくなってしまうから、こののんびり感で中和されるくらいがちょうどいいのかもしれない。
「ほら、行くぞ」
「うん!」
「食い過ぎてまた腹壊しても知らないからな。せっかくの里帰りなのに」
「うん、だいじょぶだもん」
ホールへと続く廊下を歩き始めた俺の肩にちょこんと乗ったやんちゃ坊主は、小さな身体で甘えるように、キュッと首に抱き付いてきた。
「いちろ、ありがと」
大丈夫。
この覆面を被っていれば、俺の正体は鬼原課長にはバレないし。
本当は、ものすごく申し訳ないことをしてるって、分かっているけど。
今日だけは、アニキのためだから。
アニキが褌妖精の国とやらに一時帰国できたら、俺も……ちゃんと鬼原課長のことを考えるから。
心の中で何度も言い訳を繰り返し、課長に謝りながら。
俺は、左手の薬指から真っ直ぐに伸びた白い布に導かれるように、ホールのドアを開けたのだった。
○●○
緊張のあまり、すっかり忘れていたことがあった。
「あ……れ? 今日は、褌だけ……?」
前に俺がこっそり来店した夜は“仮面褌パーティー”というイベントが開催されていて、だからこそ、ハムスター覆面に褌という警察に突き出されてもおかしくないような姿でも特別に目立つことはなかった。
褌バーの仕組みはよく分からないけど、良く考えてみれば、仮面褌パーティーなんていう怪しげなイベントが毎日のように開催されているはずはない。
「お。この前の……」
「はむケツ?」
「はむケツだ」
「今日もハムスターの格好で来ちゃったのかよ、はむケツ」
「違和感ねえな」
ドアを開けてむせ返るような雄の熱気に包まれた瞬間、フロア中の視線が一気に俺へと向けられ、そこで俺は初めて、自分以外の人間が誰も仮面をつけていないことに気付いたのだった。
「いちろ、目立ってるね」
「……」
恥ずかしい。
そもそも褌一丁という格好自体が慣れなくて恥ずかしいのに、きっちりとお気に入りの褌を締めこんだ逞しい常連客がひしめくフロアで、俺だけ間抜けなハムスター覆面という状況が、耐えられないほど恥ずかしい。
もう、鬼原課長に会うという目的がなかったら、いますぐドアを閉めて全力疾走で帰りたいくらいだ。
「あ、たちばなかちょーさんだ!」
どうしたらいいのか分からなくて、ハムスター覆面の下で涙目になって立ち尽くす俺を救ってくれたのは、意外なことに鬼原課長ではなく、ドア近くのボックス席で間宮さんやお仲間の兄貴さん達と談笑していた橘課長だった。
「――来い」
「うお!」
カウンター席で他の兄貴さん達と話していた鬼原課長が俺に気付いてこちらに身体を向けるより早く、立ち上がってドアの方に歩いてきた橘課長がプロレス技かという容赦ない勢いで俺の首根っこを引っ張り、フロアの隅へと強引に引っ張る。
「いいい、痛い、痛いです!」
「俺の忠告を無視してのこのこ現れやがって。イイ度胸だな、はむケツ」
「……!」
薄々そんな気はしていたけど、どうやら、橘課長は俺のことを助けてくれた訳ではなさそうだ。
店に入って草々、もの凄いピンチに追い込まれてしまった。
「いちろいじめちゃ駄目!」
小さな身体でぷりぷりと橘課長に抗議するアニキの気持ちは嬉しいけど、橘課長にはその姿が見えていないんだから、何の意味もない。
本当の意味で俺を助けに来てくれたのは、鬼原課長でもアニキでもなく、ほんのり優しいアイボリーの褌を締めた天使のような褌兄貴だった。
「橘課長!」
「……間宮」
「そんな顔、しちゃ駄目です。田中、じゃなくて……はむケツさん、怖がってるじゃないですか!」
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