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 あれは絶対、変な風に誤解しちゃってる感じだ。

「追いかけなくていいんですか」

 間宮さんが駆け下りて行った階段を眺めたまま呆然と立ち尽くす橘課長に恐る恐る言ってみると、今すぐにでも喰い殺すぞといわんばかりの目で思い切り睨み付けられてしまった。

「クソガキが、ふざけやがって」
「えっ、今のって俺のせいじゃない……です、よね?」
「……」

 そもそも壁際に追い詰めた相手にギリギリまで近づいて、超至近距離から顔を覗き込むなんていう、いかにも間宮さんに誤解されるような状況を作り出してしまったのは橘課長なのに、これで恨まれてしまうのは何だか腑に落ちない。

 恐ろしいくらい静まり返った廊下で、アニキだけが元気いっぱいに飛び回って階段へと続いていく金色の褌を掴み「いちろをいじめるからだもん! たちばなかちょーさんの自業自得だもん!」と、既にどうしようもないくらいグラグラと揺れている褌を一生懸命揺すって橘課長の動揺具合にとどめを刺していた。

 おいおい、もうその辺で止めてやれよ。
 ただでさえグラッグラに揺れちゃってるのに。
 危険な野獣オーラを放つ褌兄貴の、内心のあまりの動揺っぷりが気の毒になってくる。

「とにかく……詳しい事情は説明できないんですけど、俺は鬼原課長の弱みを握ろうとか、そういうつもりであの店に行ったんじゃありません」
「そうだよ、だいたい、かちょーさんの弱みをにぎってもそれを有効活用できるだけの悪知恵なんていちろーにはないもん!」

 いや、そう言われてしまうと、それはそれでどうだろうと思うけど。
 偉そうに胸を張って身も蓋もないことを言うアニキをチラリと睨み付けてから、俺は橘課長の顔を見上げ、真っ直ぐにその目を見つめた。

「確かに俺は今まで同性に対して恋愛感情を持ったことはないですし、鬼原課長の気持ちに応えられるかというと……それは自分でもよく分からないんですけど、課長のことは嫌いじゃないです」
「お前……」
「結果的に課長を騙してることになるって、自分でも分かってるんです。分かっていても、どうしていいか考えられなくて。……だから、どうか俺があの晩店にいたはむケツだっていうことは鬼原課長に言わないで下さい!」

 いつまでも鬼原課長に嘘をつき続けたくない。

 でも、ずっと生まれ育った故郷に帰れずにいるアニキを放っておくこともできない。

 だからといって……アニキのために鬼原課長とどうこうしようというのも、結局課長を騙しているのと変わらない気がして。

 これ以上どうしていいのか分からず、とにかく俺がはむケツだったことは鬼原課長に知られたくなくて、土下座する勢いで頭を下げて頼み込むと、頭上から橘課長のため息が聞こえてきた。

「そんな説明で俺が納得すると思っているのか」
「納得してもらえるとは、思っていません」

 納得はしてもらえないだろうけど、今の俺にはこうやって頼み込むしかない。

「大丈夫だよ、いちろ。もしたちばなかちょーさんが告げ口するって言ったら、しばらくのあいだ子猫の鳴き声しか出せなくなるおくすり飲ませちゃうからね!」

 いや、もうこれ以上橘課長を追い詰めないであげて下さい。

 緊迫した空気をまったく読まないアニキが何やら頼もしげなことを言って褌の中から取り出した小瓶を高々と掲げて見せてくれたが、この迫力の男前課長の口から子猫の声が出るところを想像したくなくて、俺は小さく首を振って、今にも橘課長の口に怪しげなスプレーを吹きかけようとしているアニキにストップサインを出した。

 橘課長からそれ以上の返答はなく、俺も何を言っていいのか分からないという気まずい沈黙の中。
 突然胸ポケットの携帯が鳴り出し、静かな通路に『一度借りたら最後〜、地獄の沙汰も金次第〜』という、何とも極道な歌声が響き渡った。

 今まで普通の呼出音にしていたはずなのに、一体どうしてこんな恥ずかしい着信音になっているんだ。

「あのね、日曜日の朝にやってる『闇金戦隊トイチマン』の着メロ入れておいたの。かっこいいよね、トイチマン」

 ……犯人はお前か。
 桃色のケツをぷりぷりさせながらチラッと俺の顔を見上げるやんちゃなちびっこを睨み付け、俺は着信のディスプレイを確認した。

「あ、課長からだ」

 駐車場についたものの、先に車に乗っているはずの俺がいなかったので確認の電話をかけてきたんだろう。

 この状況で電話に出てよいものだろうかと、恐る恐る橘課長の顔をチラ見した瞬間、黒褌の野獣兄貴は俺の手から携帯を奪い取ってしまった。

「おう、ケンジか」
「ちょっ、橘課長……!?」

 まさか今すぐ、田中一郎イコールはむケツ説を暴露してしまうつもりなんだろうか。

 子猫声の怪しげな薬を抱えたアニキがどうしようどうしようと悩んでいる姿に、顔が青ざめる。
 はむケツのことはバラされたくないけど、子猫声だけはダメだ。はむケツ以上に事情を説明できそうにない。

「悪いな、お前さんのところの若いモンをちょっと借りていた。戻りが遅れても叱るなよ」
「え?」
「――ああ、また店でな」

 それだけ?

 予想外のあっさりした会話を聞いて口を半開きにした間抜け顔で固まる俺に携帯を戻し、野獣兄貴は眉を険しく寄せたまま「俺はお前を信じた訳じゃない」と、低い声で呟いた。

「今は時間がないだけだ」
「あ、そうですよね。早く間宮さんを追いかけなきゃですもんね」
「……」

 間宮さんの名前が出てきた瞬間にグラリと運命の六尺褌が揺れるあたり、この人も相当間宮さんに振り回されているんだろうなあという気がする。

「忘れるな。もしお前がケンジを傷つけるようなことがあったら、俺もあの店の仲間も……お前を許さないからな」

 脅すように、低い獣の唸り声でもう一度念押しして。
 橘課長は、俺の返事を聞く前に踵を返し、間宮さんへと続く褌を追いかけるように階段を下りて行ってしまった。

「ないしょにしてもらえてよかったね、いちろ」

 ふよっと俺の顔の前に浮上してきたアニキの柔らかい尻をつん、とつついて、俺も駐車場へと早足で向かう。

「傷つけるようなことがあったら、許さない……か」

 目の前には、真っ白な『運命の六尺褌』が伸びて、俺を鬼原課長の下へ導いてくれていたのだった。



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