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「――では、詳しいことは研修の日程が決まり次第ご連絡します」
「よろしくお願いします」
斜め向かいに座る橘課長からの、ケツと股間への視線をひしひしと感じながら、ようやく落ち着かない打ち合わせを終えた後。
俺は『プラザ801』の二人に挨拶して、鬼原課長の背中にぴったりくっついたまま会議室を後にした。
俺が密着状態でついてきたことに驚いたのか、左手の薬指に巻き付いた六尺褌はものすごいスピードでバクバクと脈打って鬼原課長の動揺を伝えてきたけど、俺も動揺していて、どうしていいのか分からない。
だって、橘課長の目が怖すぎる。
完全に、獲物を見据える野獣の目だよあれは。
「いちろー、かちょーさんをあんまりドキドキさせちゃダメ! 小悪魔すぎるよ!」
課長の肩にちんまりと座ったアニキが柔らかそうな頬を膨らませ、一生懸命小さな手をぱたぱたさせていて、そのほのぼのとした光景に一瞬和んだ俺はようやく落ち着きを取り戻し、ほぼ密着していた課長の背中からそっと離れた。
「田中」
「はい!」
相変わらず内心の動揺をまったく感じさせない低い声で俺を呼んで、課長が振り向く。
思っていた以上に至近距離で目と目が合って、近くで見ても男前なその顔に、今度は俺の方がドキッとしてしまった。
「俺はもう一度食品部に顔を出してマネージャーに挨拶して来るから、先に車に戻ってくれ」
「あ、はい。分かりました」
さすが鬼原課長。
丁寧な対応で取引先の担当者との親密度を上げておくことが重要なんだな……などと、足早に去っていく背中を眺めながら納得していると、俺の肩の上に戻ってきたアニキがぷっくりと頬を膨らませて、小さな手で首をぺしっと叩いてきた。
「ほら、これ以上いちろーとくっついてたら危ないって思って、かちょーさん逃げて行っちゃったじゃん!」
「危ないって何だよ」
「お仕事中なのにはつじょーしちゃったら大変でしょ」
「……」
発情……しそうになったんですか、課長。
ちょっと密着して歩いただけで。
「いちろーはもっと男心をおべんきょうしなきゃダメだね。かちょーさんが気の毒になっちゃうもん」
在庫の箱が積み上げられたバックヤードを通って来客用の駐車場へと向かいつつ、偉そうに胸を張ってそんなことを言うちびっこの身体をつまみあげて尻でもつついてやろうかと思ったその時。
背後から、聞いたことのあるような声が響いた。
「おい、はむケツ」
「はいっ!」
……“はむケツ”?
反射的に返事をしてしまった後で、足が止まる。
今の俺は、褌を締めている訳じゃないし、ハムスターの覆面を被っている訳でもない。
そして、褌バーでも何でもないこんな場所で、どうして“はむケツ”と呼ばれたんだろう。
「ええと、あの……」
激烈に嫌な予感がして、恐る恐る振り返ると。
「やっぱりお前だったのか」
「あ……!」
そこには、さっき会議室で別れたばかりの橘課長が腕を組み、鋭い獣の瞳を光らせて立っていたのだった。
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