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○●○
「田中」
「は、はいっ!」
鬼原課長と二人で会議室にこもり、午後からの打ち合わせについて手順を確認していた俺は、突然名前を呼ばれて直立不動の姿勢で答えた。
「俺のケツに何かついているのか」
「あ、いえ……何も」
「だったら、資料の方を見ろ」
「はい!」
正確に言うと、課長のケツには思いっきり“何か”がついている。
ホワイトボードに資料を貼り付けて確認する課長の後ろでは、やんちゃなちびっこ妖精が元気に飛び回って、手にした小さなレーザーポインターで「狙うとしたらココだよ! この辺にチュッとね!」と課長のケツにぐるぐるとハートのマークを描いていた。
唇と唇のキスじゃなくてもいいなら、敢えてケツにこだわらなくてもいいだろうという気がするが、アニキの話では桃ポイントの対象になる“初ちゅー”はどうやら“マウストゥーマウス”または“マウストゥーヒップ”の二択に限られるらしい。
謎過ぎる仕組みに突っ込みを入れずにはいられないが、アニキ的にはもう狙いはケツ一本に絞られているらしく、何の作戦を立てているのか今朝からずっと課長の足の長さを測ってケツの位置を確かめたり、どのあたりが狙いやすいか真剣な様子で考えていたりとふよふよ飛び回っていて。
その行動が気になって仕方ない俺は、必然的に今朝から課長のケツばかりガン見して過ごしていたのだった。
「とにかく、この『プラザ801』の創業記念オリジナルビールは数量限定販売だからな。本店ほどではないだろうが……お前の担当する渠須北店でも売り場の混雑が予想される。まずは店舗の知識を頭に叩き込んでおくことだ」
「確か、渠須北店の方からは食品部の方がヘルプに入って下さるんですよね」
「ああ、状況を見て総務の担当者も入るらしいが……創業記念祭の真っただ中だから売り場はどこも戦場だろう。あまり期待しない方がいい」
淡々と打ち合わせの流れを説明しながら、さりげなくケツの話題を振ってきた鬼原課長だったが、俺との間を繋ぐ真っ白な六尺褌は激しく波打って、課長の心の動揺を伝えていた。
これだけ動揺していても顔色一つ変えずにいつもと同じように仕事を進めることができるなんて、さすがにデキる男は違う。
「『プラザ801』の売り場でうちのイベントを入れてもらえるのは初めてだからな。一応向こうは入店スタッフに自社の社員と同じ研修を受けることを条件に出していて、今日は食品部との打ち合わせの後、研修日程の確認で総務の担当者とも打ち合わせをすることになっている」
「わざわざ総務の担当者まで時間をとって下さったんですね」
大手百貨店の総務担当者なんてものすごく忙しそうなイメージなのに、ビールの販売イベントのためにわざわざ打ち合わせの時間を取ってくれるなんて珍しい。
やや緊張して呟くと、左手の薬指に巻き付いていた六尺褌が更にグラグラと揺れて、今まで以上の動揺が伝わってきた。
「いや……実は、渠須北店の総務課長が個人的な知り合いでな。今回の販売イベントが成功すれば今後も世話になることがあるだろうし、挨拶がてらお前を紹介しておくつもりで声をかけておいた」
「俺のために……! 課長、ありがとうございます!」
「あちらさんも教育を兼ねて新人を同席させるらしい。……という訳で、総務の方は緊張するような打ち合わせじゃないから、むしろ食品部との打ち合わせに集中してくれ」
「はい!」
『プラザ801』で定期的に販売イベントを行うことができるようになれば、その度にスタッフの研修や入店関係の手続で総務の担当者にお世話になることがあるかもしれない。
最初に顔を繋げておくことができれば、その後スムーズに仕事が進むだろう。
いつもこうやってさりげなく部下を気遣ってくれる鬼原課長の優しさが嬉しくて、怒っている訳じゃないのに怖く見えてしまう男前の顔をじっと見つめると、課長の顔にはまったく何の変化もないまま、二人の間に揺れる六尺褌だけがじわっと温かくなった。
「いちろ、できればダブルポイントデーまで待ってほしいけど、ちゅーしたかったら今とかでもしていいからね! その後のことは、それからかんがえるから!」
いや、しないから。
アニキはまだ、あの怪しげな作戦を諦めていないらしい。
ちんまりとデスクの上に腰かけてふんふんと鼻歌を歌っているちびすけの姿を見て、何となく和やかな気持ちになっていた俺は。
この後まさかの衝撃的な出会いが訪れることを、まだ知らなかったのであった。
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