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一度コツを覚えてしまうと今までできなかった色々なことが簡単にできるようになって、嬉しくてついつい夢中になってしまう。
「キリのいいところで止めておかないと、後から疲れるぞ」
課長に言われて顔を上げ、ふと窓から外を見ると、いつの間にか空は柔らかな夕暮れの色になっていた。
「あ、もうこんな時間なんですね」
さすが、ハイグレードマンションの高層階というだけあって、リビングの大きな窓の向こうには絶景が広がっている。
淡いオレンジ色の空と灯り始めた街の明かりを見つめていると、何だかロマンチックな気分になってしまいそうだった。
顔と性格が男前なだけじゃなく、背も高くて足も長くて、しかも住んでいる家までカッコイイなんて、何だかずるい。
「――メシでも、食いに行くか」
いつもと変わらない低い声でポツリと呟いた課長だったけど、このさり気ない一言を絞り出すためにものすごく緊張していたことは、ギュッとねじれて固まった“運命の六尺褌”を見れば明らかだった。
こんなに格好良くて頼れる上司で、仕事中は何があっても動揺している姿なんて見たことがないのに。
俺を食事に誘うだけで、こんなに緊張しているなんて。
断られるかも、という課長の不安が左手の薬指を結ぶ白い布から伝わってきて、俺は何だか堪らない気持ちになってしまった。
やっぱり鬼原課長はずるい。
俺は別に男に興味なんてないと思っているのに、こんな風に想われていることが分かってしまったら、俺までドキドキしてしまう。
「お休みの日にお世話になってしまったお礼に、俺にご馳走させて下さい」
「部下に財布を出させる訳にはいかん」
「でも……」
わざわざ休日を潰して俺に付き合ってくれた課長に、更に食事まで奢ってもらおうというのはいくら何でも甘え過ぎな気がする。
行くぞ、と言って立ち上がりかけた課長のシャツを引っ張って引きとめ、俺は男前上司の顔を見上げて提案した。
「じゃあ、俺、何か作ります! 冷蔵庫の中の物、使ってもいいですか」
結局課長の家にある材料を使うのだから、奢られるのと変わりがない気もするけど、料理を作るというひと手間で感謝の気持ちは表せるはずだ。
我ながらナイスな提案だと思って言ってみた瞬間、課長の身体はグラリと傾いて、硬直したままリビングの床に倒れこんでしまった。
「課長!? 大丈夫ですか!」
「あ、ああ」
フラフラと起き上がった鬼原課長の左手の薬指から俺の指へと、白い布が大きく波打って、課長の動揺と大きな鼓動を伝えてくる。
「……それは危ないだろう」
「や、普段は面倒で自炊しないことも多いんですけど、料理自体は嫌いじゃないんでそんなに危ない物は作りませんよ」
「それは心配していない」
「じゃあ、冷蔵庫の中の物が腐りかけてるとか?」
「俺がそんなにだらしない人間に見えるか」
「見えませんね」
会話だけ聞いていると、課長が手料理に全然乗り気じゃないように感じられるけど、険しい表情の男前上司が本当は俺の提案に尋常じゃないレベルで喜んでいるらしいことは六尺褌を通じて伝わってきていたので、多少強引に出ても大丈夫だと踏んで、俺は立ち上がってキッチンへと向かった。
「エプロン、お借りしてもいいですか」
「っ!!」
エプロンを借りたいと伝えただけで、左手の薬指を繋ぐ白い布が爆発的な勢いで膨らんで、一瞬でギュッと細く締まる。
赤くなったり白くなったり、膨らんだり、忙しい褌だ。
「田中」
「は、はい」
俺に続いてキッチンに入ってきた課長が、お互いの吐息すら感じられるほど近くに立って真剣な表情で俺を見下ろし、静かに腕を伸ばしてきた。
「……鬼原、課長?」
冷蔵庫との間に挟まれて後ろに逃げ場がない状態で、課長の顔が近づいてくる。
何この状況。
本気で逃げようと思えば逃げられない状況でもないのに、何で俺は動けないまま、課長の行動を待っているんだろう。
何で、キス待ちみたいな状況になっているんだ。
「……」
「……」
永遠にも感じられる、一瞬の沈黙の後で。
鬼原課長は、冷蔵庫の横にかかっていたらしいエプロンを手にして、俺に渡してきた。
「――食材は好きに使っていい。何か手伝えることがあったら言ってくれ」
「あ、はい……」
どうやら鬼原課長は、俺の後ろにあったエプロンを取りたかっただけらしい。
過剰に反応し過ぎた自分が恥ずかしい。
全身から一気に力が抜け、左手の薬指から伸びる白い布を見ると、いつもは鬼原課長の指から反応が伝わってきているはずなのに、固くねじれた六尺褌は両側からじわじわと薄桃色に色を変えていたのだった。
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