9


 鬼原課長って……、こんな風に寂しそうな顔で笑うこともあるんだ。知らなかった。
 会社ではいつも、怖いポーカーフェイスなのに。

 しょんぼりと寂しげに弛んだ“運命の六尺褌”を見た瞬間、俺は思わず鬼原課長の腕を掴んで仮面に覆われたその顔を見上げていた。

「諦めちゃ駄目ですよ! ちゃんとその部下さんだって、かちょ……じゃなくて、ええと、ケンジさんが自分のことを見守ってくれているんだっていうことは分かってますから。怖がられていても、絶対に嫌われたりはしてないです!」

 ――って、何で課長を応援しちゃってるんだ、俺は。

 俺はゲイじゃないし課長とどうこうなるつもりはないんだから、鬼原課長には申し訳ないけど最初から失恋は確定してるじゃないか。
 励ましといて自分で振るって、最低すぎだろ。

「お前……」

 突然の俺の励ましに、一瞬驚いた様子で固まった課長は、すぐに凛々しく引き締まった唇の端を上げ、大きな手で覆面越しに俺の頭をワシャワシャと撫で始めた。

「え? ちょっ!? 何するんですか、止めて下さいよもう」
「イイ子だな、坊主」
「坊主じゃありません。ちゃんと成人してますって」
「やっぱり少し、俺の部下に似ている」

 課長が上機嫌になってくれたのは少し嬉しいけど、今の俺は、あまり力いっぱい撫でられたら覆面が外れちゃうんじゃないかとヒヤヒヤして、それどころじゃない。

 ひとしきりグリグリと俺を弄り倒して満足したらしい課長がマスターにビールとソーセージのおかわりを頼んでいる間、黒い六尺褌の兄貴もグリグリっと俺の頭を撫でて「今度は仮面褌パじゃない日に遊びに来い、はむケツ」と、課長に聞こえないようにこっそりお誘いの言葉をかけてくれた。

「仮面を外したケンジを見たら惚れるぞ。顔も性格も、男前度は俺が保証してやる」
「惚れちゃ駄目じゃないですか」
「お前ならケンジにノンケの部下を忘れさせて、報われねえ片想いを諦めさせられるかもしれねえ」
「……そ、そんな期待をされても」

 そのノンケの部下って、多分俺なんですけど。
 しかも俺、ゲイじゃないんですけど……とは言えそうにない、この状況がつらい。

 誰も手をつけていないはずのソーセージが減っていることに気付きもしないまま追加注文をするあたり、実は結構酔っているのかもしれない課長は、黒褌の兄貴と俺が顔を近付けてこそこそと話していることに気付き、後ろから俺の腰を引き寄せて黒褌の兄貴から引き離した。

「いい加減にしろ、恭輔」
「何だよ、ヤキモチか」
「お前には間宮君がいるだろうが。誤解されるようなことをするな」
「そんなことはお前に言われなくても……」

 反論しかけて、フロアの入り口に目を向けた黒褌の兄貴が手を挙げ、誰かに合図するようにその手を振った。

 黒褌兄貴の身に纏う雰囲気が一気に柔らかくなったのが俺にも伝わってくる。

「ここだ、間宮」
「課長……! すみません、遅くなっちゃいました」

 フロアに溢れる褌兄貴達の間を縫ってこっちに向かってくる“間宮”と呼ばれた男の姿に、俺は自分の目を疑った。

 すっぽりと顔を覆った愛くるしいヒヨコの覆面に、ほんのり柔らかいアイボリーの褌。
 間宮さんとやらは、覆面の種類と褌の色が違うだけで、ほとんど俺と同じ格好をしていたのだ。

 屈強な身体つきの逞しい兄貴揃いのフロアで、やや華奢な体格までもがカブっている。

 アニキのセンスでこの格好をさせられた俺と違って、まさか自分でこんな格好をしてくる褌兄貴がいるなんて……一体どういう店なんだ、ここは。

「あれ? もしかして、初めて来られる方ですか?」

 可愛いヒヨコ覆面の首を傾げて尋ねられて、俺はハムスター覆面でコクコクと頷いた。

「よかった……今夜はこの格好で来いって課長に言われていたんですけど、やっぱり少し恥ずかしくて。お揃いの方がいて安心しました」
「似合うぞ。そうやってはむケツと並んでいると兄弟みたいだな」
「もう、こんな所でお尻を揉まないで下さい! っていうか、はむケツ、さん……ですか」

 いつの間にかはむケツという呼び名が定着しつつある俺に、覆面越しにも分かる気の毒そうな視線を向けて、間宮さんはそっと握手の右手を差し出してきた。

「俺のことはぴよケツって呼んで下さいね、はむケツさん」
「ぴ、ぴよケツ!?」

 本当にどんな店なんだろう、ここ。

「しかし、まさか本当にその格好で来るとはな」
「だって、家に帰ったらわざわざテーブルの上に出してあったし、課長がそんなに楽しみにしているならって……」
「今夜はそのヒヨコの覆面をつけたままどうだ? 意外に興奮するかもしれねえな」
「そ、そういうことを、他の人がいる前で言わないで下さいってば!」

 ぴよケツこと間宮さんは黒褌の兄貴と何やら特別な関係らしく、さっきまで鬼原課長と並んでクールな男前の雰囲気を醸し出していた黒褌兄貴が、もう見ているのも恥ずかしくなるような蕩ける優しさでぴよケツさんを甘やかし始め、居場所に困ってしまった俺は、何事もなかったかのように淡々とビールを飲み続ける鬼原課長の隣にちんまりと腰を降ろして仮面に覆われた顔を覗きこんだ。

「……お二人が羨ましい、ですか?」
「いや。ノンケに惚れた時点でどうにもならないことは分かっているからな。俺は……厳しい上司だと怖がられても鬱陶しがられても、アイツを一人前の社員に育て上げることができれば、それでいい」
「!」

 低いハスキーな声で語られたその言葉に、俺の胸はキュッと切ない痛みを感じた。

 知らなかった。
 こんなに真剣に俺のことを思ってくれる人がいたなんて。

 男でも女でも、この先俺のことをここまで好きになってくれる人なんて、もう現れないんじゃないだろうか。

 どんどんうるさくなっていく鼓動を何とか落ち着かせて、鬼原課長に何かを言わなくては……と焦る俺を見事に脱力させてくれたのは、もちろん、忙しく羽根をパタつかせた小さな妖精だった。

「いちろ! 見て、これ!」

 鼻息をふんふんさせて飛んできたアニキの手には、謎の小さなカードが握られている。

「いちろーとかちょーさんの桃ポイントカードに、ポイントがついたの!」

 じゃーん! と得意げに見せられたそのカードには、桃のマークのスタンプが一つ、並んだ欄の隅っこに押されている。

 桃ポイントカードって何だよ、と心の中で突っ込みを入れる俺の前で、アニキは嬉しそうに羽根をパタパタさせながらテーブルの上に着地して、課長が追加でオーダーしたソーセージを食べながら説明を始めた。

「この桃ポイントカードはね、いちろーとかちょーさんの運命の恋が前進するたびにスタンプがもらえるの。今日のは、いちろーがかちょーさんのことをちょっぴり意識してちょっぴり好きになったから、そのポイントなんだよ」
「!?」
「このポイントが全部たまったら、褌妖精の国に帰れるんだー」

 毎週火曜日はダブルポイントデーでお得だとか何だとか、そんなアニキの説明は俺の耳に入っていなかった。

 俺が、鬼原課長を意識して好きになった……!?

 ないだろ、それは。

 確かに前みたいに課長への苦手意識はないし、俺のことをこんな風に思ってくれているんだっていうのは嬉しいけど。
 でも俺は別に男同士でどうにかなりたい訳じゃないんだから。

「どうした?」

 皿のすみっこに腰掛けて「はやくいっぱいポイントがたまらないかなー」と上機嫌でカードを眺めるアニキをガン見していたら、鬼原課長が不思議そうに俺に声をかけてきた。

「いえ! 何でもないです」
「そんなにそのソーセージが気に入ったならいくらでも追加で注文してやるから、遠慮なく食え」
「はあ、ありがとうございます……」

 今夜の課長は会社で見るときよりずっと優しくて、男らしくて、カッコイイ。

 男同士じゃなかったら、確かに俺は課長のことを好きになっていたのかもしれない。

 二人の間では、左手の薬指を繋ぐ“運命の六尺褌”が、俺の動揺を表すかのように揺れていたのだった。




(*)prev next(#)
back(0)


(29/89)
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -