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○●○


 土曜日に家でパソコンを教えてくれるという話をしてからも、鬼原課長の厳しい態度が変わるようなことはなかった。

 ――あくまでも、表面上は、というただし書き付きで。

「田中」
「はいっ!」

 報告書の数字に記載ミスがあった、と課長席に俺を呼びつけて書類をつき返すその顔は相変わらず険しい鬼上司の顔だ。
 今までの俺だったら涙目になって謝り、肩を落として自分のデスクに戻っていただろう。

 一通りダメ出しをくらった後で半泣きの状態で何とか課長席の前に留まったのは、課長の左手の薬指から伸びた真っ白な六尺褌が、ピンと張って俺を引き止めているような気がしたからだった。

「あの……課長?」

 もしかして、まだ何か俺に言うことがあるんだろうか。

 首を傾げて課長席の前に立つ俺を鋭い瞳でチラリと見上げて、鬼原課長は自分の前に置いてあるパソコンのディスプレイを指指し、俺にだけ届く低い声で呟いた。

「共有ファイルに打ち合わせの資料が残っている。今から打ち直すより、そのデータをそのまま移した方が早いだろう」
「あ……!」

 課長、わざわざ打ち合わせの資料ファイルを開いて、俺の前でゆっくりデータを移して見せてくれたんだ……。

「ありがとうございます。すぐ、直します!」
「急がなくてもいいから正確に仕上げろ」
「はい!」

 他の課員に気付かれないように俺を呼びつけ、こっそりアドバイスをくれた上司の優しさが嬉しくて、自然と頬が熱くなってしまう。

 視線を落として再びパソコンに向かい始めた課長の顔はいつもとまったく変わらないポーカーフェイスなのに、左手の薬指を包み込む六尺褌からは、くすぐったい温もりが伝わってきた。

「オフィスラブって、ロマンチックだよね! 金曜日の仮面ふんパが楽しみ〜」

 ちんまりと俺のデスク上のファイルに腰掛けて様子を見守っていたアニキが、両手を頬に当ててうっとりとため息をつく。

 今のやり取りのどこにロマンチックな要素があったのかは分からないが、何やら盛り上がってしまったらしいちびっこ妖精は、報告書を訂正する作業を見守りながら、ディスプレイの端に乗って一人芝居を始めていた。

「“ありがとうございます。すぐ、直しますっ”“急がなくてもいいから……敏感に感じろ”“あっ、かちょー、おちんちん触っちゃ、やんっ! えっち!”」
「……」

 何この一人芝居。
 展開がいきなり過ぎるというか、さっきの会話が無理矢理変な方向に捩曲げられている気がする。

「そこでかちょーさんが褌をお披露目して、かちょーさんのカッコよさにメロメロになったいちろーが“だいて!”ってなるの」

 ならないだろ、普通。

 というか、どこからどう見てもちびっこいガキにしか見えないアニキの口からそんな言葉が出てくること自体が問題アリだろう。
 俺がいたいけな子供に妙な知識を植え付けているような背徳感に襲われてしまう。

「いたいっ! いちろーの意地悪!」

 まだ怪しげな一人芝居に熱中しているちびっこ妖精の剥き出しの額を指先で突いてやると、アニキはぷっくりと頬を膨らませた。

 ――と同時に、課長席から低いハスキーボイスが飛んでくる。

「田中」
「はははいっ!」
「熱があるんじゃないのか、顔が赤いぞ」
「いえっ、大丈夫です」

 目の前で課長と俺をネタにした怪しげな一人芝居を見せられて恥ずかしさに身悶えしていました、とは言えず。
 突かれた額を押さえて大きな目を潤ませるちびっこ妖精をひと睨みした俺は、報告書の訂正にひたすら集中したのだった。



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