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○●○


 鬼原課長が決裁書類に目を通している時間は、俺にとって地獄の苦しみタイムだった。

 厳しい表情で企画書をひと通り読み終わった後で「田中」と地を這うような重低音の声が俺の名前を呼んで、課長席の前に立たされた俺は、射殺されるんじゃないかというような鋭い視線に怯えながら情け容赦ない口調で仕事の甘さを叱責される……というのが、今までの日常だったのだ。

 ――ただ、それはあくまで“今まで”の話。

 最近は、それが少しずつ変化しつつあった。

「田中」
「はい!」

 掠れ具合がセクシーだと女性陣に大好評のバリトンで呼ばれ、慌てて課長席へと飛んでいくと、今朝出したばかりの決裁書類を手に鬼原課長が迫力のある鋭い瞳で俺を睨み上げる。

「この年末の販促プランだが」
「は……はい」

 どこか間違っていたのか。
 それとも、数字の見積もりが甘かったか。

 蛇に睨まれた蛙状態で次の言葉を待つ俺の前で、課長はあっさりと確認印を押し、企画書を返してくれた。

「このまま企画書通りに進めていく。カレスマーケティングの担当と打ち合わせの日取りを決めておいてくれ」
「え?」

 まさかの一発オッケーに思わず間抜けな声を出す俺の顔を見上げて、鬼原課長がキリッと凛々しい眉を跳ね上げる。

「聞こえなかったのか。その企画書通りに進めるから、打ち合わせの準備をしろと言ったんだ」
「訂正なし、ですか?」
「必要ない」
「うわ……ありがとうございます!」

 すげー。俺だけに限らず、鬼原課長が課員の企画書を一度で通すことなんて滅多にないのに、通ってしまった。
 我ながら、信じられない快挙だ。

 自分で自分を褒めちぎりたい気持ちに浮かれながらも、俺の目は、課長と俺の指を繋ぐ白い褌をじっと見つめていた。

 どうやら鬼原課長の気持ちが表れてしまうらしいこの六尺褌は、最近ずっと元気がないのだ。
 最初はピンッと張って堂々と白く輝いていたのに、今は力無く弛んでいて、心なしか前より細くなっている気がする。
 課長本人は見た目には何の変化もないけど、さすがにこの褌の変化は気になってしまう。

「どうした、田中。席に戻っていいぞ」
「はい、あの、ええと……課長、最近疲れていたりとか、しますか?」
「――俺が?」

 だって、運命の六尺褌とやらがこんなにションボリしているし。

 気になって訊いてみると、左手の薬指に巻き付いた六尺褌がじんわりと温かくなった。

「別に疲れてはいない」
「あ、それならいいんです。何かちょっと、元気がないような気がしたんで……変なことを聞いて申し訳ありません」
「いや。……それよりお前」

 何かを言いかけて一瞬口をつぐんだ課長が、相変わらずの無表情で再び口を開く。

「最近仕事の仕方が変わったな」
「えっ、そうですか?」
「確認不足のミスも減ったし、資料も今までより広く深く調べるようになっただろう」
「あー、それは……今、ちょっとした事情で一緒に住んでる友人がいて、そいつが仕事のデキる奴で色々教えてくれるので」

 俺がそう言った瞬間、運命の六尺褌がギュッと左手の薬指を締め付けた。

「同居中の友人に、仕事上のデータを見せたりはしていないだろうな」
「それは大丈夫です! パソコンの使い方とか資料のまとめ方を習っているだけですから」
「そうか。――この調子で、頑張ってくれ」
「はい!」

 仕事ぶりを褒めてもらえたことは嬉しいのに、褌を通して課長の痛みが伝わってくるから、何だか複雑だ。

 一礼して戻った俺のデスクの上では“一緒に住んでいる友人”が消しゴムの上にちんまりと腰掛け、分厚いファイルをテーブル代わりに玩具のようなちびっこいキーボードとマウスを操って、俺が作成したプレゼン資料をちまちまと手直ししているところだった。

「いちろーが小悪魔すぎて、かちょーさんがかわいそう!」



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