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見えている物を、見えていないかのように無視して振る舞うのは難しい。
「あっ! ねえねえ、もしかしてここがいちろーの会社? すごい! おっきなビルだね」
柔らかそうなケツをプリプリさせながら目の前を飛んでいるちびすけの問いには答えず、俺はエントランスに立つ警備のおじさんに挨拶してビルに入った。
初めての“出勤”に大興奮しているらしいアニキは鼻息をふんふんさせて何度も何度も話し掛けてくるが、それに反応すると、周りからは俺が独り言を繰り返す不審者に見えてしまうため、ひたすら無視を決め込む。
――が、アニキは俺の反応を気にする様子もなく、ちびっこい手でいがぐり頭の髪の毛を整え、ピンク色のネクタイを結び直して鼻歌を歌っていた。
「なんか、運命の六尺褌のお相手がちかづいてきてる気がする」
「はっ!?」
さすがにこの一言には反応せずにいられなくて思わず声を出してしまった瞬間、前を歩いていた営業部の稼ぎ頭・五課の赤井主任が振り返る。
「……っくしょん! お、おはようございます、赤井主任」
「おはよう。風邪かな、田中君」
「みたいっす、はは」
俺は、わざとらしくくしゃみを一つして、苦しい愛想笑いで赤井主任に挨拶をした。
もう絶対無理。
朝の時点でこんなに疲れるのに、このちびっこ妖精のせいで今日一日どれだけのヘマをしでかしてしまうのか、そしてどれだけオニハラ課長に怒られてしまうのか……想像しただけで恐ろしい。
「見てみて、運命の六尺褌がキラキラしてきたでしょ。お相手がちかくにいる証拠なの」
「お前もう帰れよ」
「やっ!」
プリッとケツを向けて先にエレベーターに乗り込んでしまった兄貴を追う俺に、赤井主任が訝しげな視線を送ってくる。
しまった!
まさか……今の「もう帰れ」を赤井さんへの言葉だと思われちゃった感じだろうか。
こんな時、どうすれば!?
「いやいや、一日はこれから! 頑張るぞー!……そうか、やる気か俺。頑張れよ。ファイト、俺!」
「……」
今のは自分への激励なんです、と言わんばかりに盛大に一人芝居を始める俺を生温い目で見つめて、営業部のエリート主任は鞄から取り出した栄養ドリンクの瓶をそっと手渡してくれた。
「え?」
「だいぶ疲れているみたいだから、あげるよ」
「や、あの……」
「大変だと思うけど、鬼原課長は見込みのない部下をあれだけ熱心に指導したりしないから。田中君にすごく期待しているんだと思うよ、頑張って」
「はあ、ありがとうございます」
これが噂の赤井スマイルか。
男女問わず取引先の担当者を虜にしてしまうという赤井主任の艶やかな笑みに、俺は一緒ドキッとして妙に色っぽいその顔から目を逸らしてしまった。
「いちろー、いいものもらえてよかったね!」
「……」
運命の六尺褌なんて絶対に何かの間違いだと思うし、男同士でどうこうする気もさらさらないけど、赤井主任くらい色っぽい男が相手なら……勢いによっては勃つかもしれない。
というか、赤井主任が褌を締めているところを想像すると興奮するかも。
そんなことを考えながら五課のフロアで先に降りていった主任の左手を確認してみたが、俺の左手の薬指から伸びている白い褌は、赤井主任の指には繋がっていなかった。
「何だ、主任じゃないのか……」
「いちろーのお相手? えー、ちがうよ、今の人は褌派じゃないもん。ビキニ派の匂いがしたよ」
「いいよ、主任の穿いてるパンツとか知りたくないし」
まあ、この運命の六尺褌とやらが誰と繋がっていようが、相手が褌を締めた男だという時点でやっぱり嫌なんだけど。
「あっ、ものすごくちかくに褌兄貴のけはいがするっ」
「……誰だよ。まさか会社にも褌を締めてきてるんじゃないだろうなーそいつ」
「たぶん褌以外の下着はもってないくらいのレベルだとおもう」
「マジで?」
そんなものすごい奴が、身近にいるのか。
同僚の顔を一人ずつ思い浮かべてみても、褌を締めていそうな人間はいない。
モヤモヤと考えながらエレベーターを降りた瞬間。
左手の薬指に巻き付いた白い褌が、力強い輝きを放ってある方向へと真っすぐに伸びていった。
「あのひとだ! いちろーの運命の六尺褌、あのひとにつながってるよ!」
「……え……?」
大興奮して飛び回るアニキの言葉に、恐る恐る白い褌をたどって視線を動かしていくと……。
「げっ!?」
まばゆいばかりに輝く六尺褌は、営業一課の俺のデスクを越えて課長席まで続き、いつもと変わらぬ無表情で黙々と書類に目を通している鬼原課長の左手の薬指に、しっかりと巻き付いていたのだった。
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