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これだけのいい男が、今まで生きてきてまったく何の経験もないはずがないことは、分かっている。
ちょっと拗ねてみせただけなのに必死になって弁解している佐竹が愛おしくなって、雪矢は思わず笑ってしまった。
「焦り過ぎですよ、佐竹さん」
伍代や良二が今の佐竹の動揺っぷりを見たら、自分の目を疑うに違いない。
「別に、本気で怒ってる訳じゃないんです。ただ少し妬けるなと思っただけで」
「驚かすな。大体、今さら昔のことなんてどうでもいいだろうが」
「そうですね。今は……俺の隣に居てくれるんですもんね」
墓穴を掘ると分かっていて、敢えて佐竹が下ネタを振ってきたのは、雪矢の緊張をほぐすためだったのだろう。
すっかりいつもの調子を取り戻して、ようやく店に入る決意をした雪矢は、シートベルトを外して助手席のドアを開けた。
「信用がねえな。そこは“今”じゃなくて“これからずっと”じゃねえのかよ」
後ろから聞こえてきた甘い声に耳の先がじんわり熱くなったが、それには気付かないふりをして車を降りた。
懐かしい木の扉の前に立ち、深く息を吸い込む。
雪矢にとって、十数年ぶりの“里帰り”だ。
思い切ってドアを開けようとしたその瞬間。
軽やかなベルの音と同時に、雪矢の目の前で勢いよくドアが開かれた。
「おっと、すんません!……って、うおっ!?」
「あ、すみません」
店の中から出てきた背の高い坊主頭の青年が、雪矢の後ろに立っていた佐竹に気付いて顔を強張らせ、それからドアの前に立っていた雪矢に視線を移して動きを止める。
日焼けした男らしい顔には見覚えがあるような気がするが、当時の幼なじみの中に思い当たる者はいなくて、雪矢も首を傾げて青年の顔を見つめ返した。
「あの……」
見慣れない客が珍しいのか、どう好意的に見ても極道の幹部としか思えない佐竹と目を合わせる勇気がないのか、青年は雪矢を見つめたまま固まって、動こうとしない。
青年のために一歩下がって道を譲った雪矢を指差し、青年は人懐っこい目を輝かせて叫んだ。
「もしかして……雪矢兄ちゃん?」
「えっ?」
「おおお! やっぱり! 本物!?」
この町で暮らしていた頃、近所に住んでいたのは年上の幼なじみばかりで、雪矢はいつも皆の弟のように可愛がられて過ごしていた。
少なくとも自分を“雪矢兄ちゃん”などと呼んでくれる年下の幼なじみはいなかったはずだ。
どう反応していいのか分からずに立ち尽くす雪矢の前で、青年は大興奮した様子で店の中に戻ってしまった。
「父ちゃん、タク! 雪矢兄ちゃんが帰ってきた!」
――父ちゃん。
耳に飛び込んできた言葉に、雪矢の心臓は跳ね上がった。
この時間帯、店にはほとんど客がいないはずだ。
店の中にいる“父ちゃん”というのは、もしかして……。
うるさくなっていく鼓動を落ち着かせる間もなく、再び店のドアが勢いよく開き、今度はまったく同じ顔をした坊主頭の青年が二人並んで飛び出してきた。
「うわ、ホントだ。ナマ雪矢!……と、ナマヤクザ!」
「な、言ったべ! 写真とそっくりだからすぐ分かったし!」
「写真よりナマのが可愛いし。父ちゃん、ホントに雪矢兄ちゃんだ。あと何か知らんけど怖い顔したヤクザ屋さん!」
ここはまず、佐竹がヤクザではないことを説明するべきなのだろうか。
何が起こっているのか理解できないまま固まる雪矢の耳に、坊主頭コンビの賑やかな声に混じって、懐かしい声が聞こえてきた。
「雪矢……?」
「!」
視界に飛び込んできた、記憶の中と同じエプロン姿と、少し白髪の増えた頭。
あの頃と変わらない優しい顔立ちの父が、細いフレームの丸眼鏡をずり下げて、大きく見開かれた瞳で雪矢を真っ直ぐに見つめている。
驚きと喜びの混じったその顔を見た瞬間、何の連絡もなく訪れたことが失礼だったんじゃないかとか、父が自分を覚えていなかったらどうしようという不安は、雪矢の中から消え去っていた。
「――父さん!」
十年以上の時を超えて小さな子供に戻った雪矢は、開かれた腕に誘われるように、大好きだった父親の胸に飛び込んでいた。
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