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○●○
「――雪矢!」
佐竹の叫びに返ってきたのは、無機質な通話音だった。
夜の繁華街を賑わす通行人達が何事かと視線を向け、黒いスーツに身を固めて黒塗りの外車の前に立つ佐竹と伍代を見た瞬間、すぐに目を逸らし、足早にその場を過ぎていく。
「近くで動かせる人間を手配しました。じきに到着するはずです」
指示を受けて動き始めた伍代が六斜区付近で連絡の取れる人間を集めて現場に向かわせた旨を報告するが、相手も一応プロだ。長く現場に留まってボロを出すような真似はしないだろう。
助けて下さい、と自分の名前を呼んでいた雪矢の切羽詰まった声を思い出して、佐竹は拳を強く握り締めた。
「割杉の野郎……堅気の人間に手を出しやがって」
高田と古森を助け出すために仕方なかったとはいえ、渠龍組寄りの立場を示すことにより、内部分裂で不穏な空気を漂わせていた備木仁会を刺激してしまったのは佐竹の責任だ。
二つの組の緩衝地帯となっているこの街を巡って争いが起きれば、佐竹が真っ先に標的にされることは分かっていた。
だからこそ、自分の弱みとして雪矢が巻き込まれ、危険に晒されたりしないようにと距離を取っていたのだ。
本当は高田に何を言われようが雪矢を手放したくはなかったし、借金のカタに身体を求めるという最悪の行為も、時間をかけて償い、少しずつあの生意気で可愛い新米カフェスタッフとの関係を修復したかった。
ただ、雪矢を守るためには離れるしかないのだと自分に言い聞かせ、せめて備木仁会の騒動が収まるまではと、伍代や良二をさりげなく護衛役につけて陰から見守っていたのだが。
「まさか連中がここまでの強攻策に出るとは……私の判断ミスです、申し訳ありません」
ほぼ直角に腰を折って深々と頭を下げる伍代に「お前のせいじゃねえよ」とだけ言って、佐竹は道路脇に停めてあった車に乗り込んだ。
運転席に伍代が乗り込むと同時に、握り締めていた佐竹の携帯が鳴り出す。
耳に当てた携帯の向こう側から聞こえてきたのは、苦しげに掠れた良二の声だった。
『社長、すんません……っ! ユキヤさん、あいつらに……連れて、行かれ……ちまったっす』
やはり、既に雪矢を乗せた車は現場から離れてしまったらしい。
怒りに任せて携帯を握り潰してしまいそうになる佐竹に、良二は途切れ途切れになりながらも、覚えていた車種とナンバーを伝えてきた。
『俺、ナンバー覚えるくらいしか……できなくて』
胸ポケットから取り出した手帳に急いでナンバーを書き留め、運転席の伍代に渡すと、ヤクザ上がりの優秀な秘書は心得たとばかりに頷いて行動を開始する。
「お前は大丈夫なのか」
『俺なんか全然たいしたことないっす。でも……ユキヤさんをちゃんと守れませんでした。社長が……任せてくれたのに、申し訳ありません!』
たいしたことはないと言っているが、苦しげな呼吸音から、良二もかなりのダメージを負っていることが分かる。
軽い口調と人懐っこい性格からお調子者だと思われがちな良二だが、仕事に対する責任感は強い。
誰より懐いていた雪矢の護衛役を果たせなかった悔しさが伝わってきて、佐竹は声のトーンを柔らかくして、部下を労った。
「お前がいなかったら、何の手掛かりも掴めないまま雪矢をさらわれていた」
『……社長』
「車のナンバーさえ分かれば、こっちにも打つ手はある」
実際、佐竹には必要な情報を集めるだけの力がある。
佐竹の言葉に、運転席では携帯を手にした伍代が力強く頷いていた。
「よく頑張ったな。伍代がそっちに人を回しているから、まずは病院に行け。治療費は経費で落としてやる」
良二の性格から、自分も雪矢の救出に向かいたいと言い出すことは予想できていたので、佐竹は命令口調でそれだけ伝えてすぐに電話を切ってしまった。
電話を切ってすぐ、今度は伍代の携帯がピリピリと着信音を響かせる。
トラックの運転手からタクシードライバーまで。
佐竹の客層は幅広く、彼らのネットワークを使えば道路上のあらゆる車を捜し出すことができる。
一言二言交わして頷いた伍代は、入手したばかりの情報を佐竹に伝えてきた。
「このナンバーの車が八○一号線を六斜区から渠須港方面に向かっているようです」
「車を出せ」
「了解」
――無事でいて欲しい。
トイチの金貸しに祈られては神様も迷惑かもしれないが、祈るような気持ちとはまさに今の心境だ。
あの綺麗な笑顔を傷付けたくない。
本当はずっと帰る場所を探していたのだと告白し、佐竹の腕の中で震えて泣いていた身体を、他の誰にも触れさせたくない。
利子代わりに、と身体を要求した最低男の自分が願っていいことではないのかもしれないと思いつつ。
佐竹は心の中で何度も雪矢の名前を呼び続け、届かないその声は、獣の遠吠えになって青い月に吸い込まれていった。
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