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雪矢本人が気にしないと言っているのだから、高田もそのうち佐竹を許すはずだ。
いつかまた佐竹が店に現れたときは、何事もなかったように笑って出迎え、コーヒーを淹れたい。
そして、こじれてしまう前の関係に戻りたい。
「そろそろいつものおじいちゃんがいらっしゃる時間じゃないですか」
朝一番の客はいつも、散歩途中に立ち寄ってコーヒーを一杯飲んでいく紳士風の老人だ。
開店時間が迫っていることをさりげなく告げると、高田は慌てて手にしていた買い物メモを雪矢に渡してきた。
「いけない、もうこんな時間! ユキヤちゃん、ひとっ走りお願いね。花は私が適当に何かに突っ込んどくから」
「分かりました」
「悪いオオカミにさらわれないように気をつけるのよ」
元々新米店員の雪矢を可愛がって面倒を見てくれていた高田だが、帰国してからというもの、過保護な母親のようになっている。
「トイチの利子でお金を貸して回るオオカミなら、この時間はまだ街に出て来ないと思いますけど」
店のためを思ってのことだったとはいえ、そこまで高田を心配させてしまったことを反省しつつ、つい頭に浮かんだ名前を呟くと、高田は笑って首を横に振った。
「そのオオカミなら心配してないわ。ユキヤちゃん禁止令を出されて、今頃おとなしく“おあずけ”してるわよ」
「何だか犬みたいですね」
「でも、冗談じゃなくて……。最近この辺もちょっと騒がしくなってきてるみたいだから、気をつけて。タチの悪そうな連中がいたら関わらずに帰ってきてね」
実際、先日は『KARES』にほど近い通りで酔っ払い同士が集団で揉めて警察まで出動する騒ぎが起きている。
後から三上に聞いた話では、飲み屋の客に絡んで騒ぎを起こしたのは備木仁会がケツ持ちをしている下っ端のチンピラ集団だったらしい。
街のはずれとはいえ『KARES』のある一帯も一応繁華街ではあるので、それらしい人間がまったく出入りしていなかった訳ではないが、これまで大きなトラブルはなかった。
それが最近になって、いかにも堅気ではない連中に居座られ、みかじめ料代わりに無理矢理高額の花や絵画のリース契約を結ぶよう脅されたという店も出始めているという。
渠龍組では、組長の弟である佐竹が商売のテリトリーにしているこの辺り一帯は名前ばかりのシマになって、組の人間が看板を掲げておおっぴらに出歩くようなことはないらしいので、リース契約を強要した男達というのも備木仁会の人間なのだろう。
内部で派閥争いがある備木仁会では、野心家の理事長補佐が幹部連中に自分の力を示すため、渠龍組との緩衝地帯になっているこの場所を縄張りにしようと躍起になっているらしいのだ。
――という話を聞いて、どうして三上がそこまで裏社会の事情に詳しいのかがものすごく気になった雪矢だったが、その辺りを詳しく聞くのはやめておいた。
世の中には、知らない方がいいこともある。
「大丈夫ですよ、そんな危なさそうな人に自分から近付こうとは思わないですって」
「どうかしら、ユキヤちゃんには前科があるから心配だわ」
「行ってきます!」
良二と知り合うきっかけになったときのことを言われると、反論できない。
これ以上高田に何か言われては堪らないと、雪矢はダッシュで店を飛び出した。
佐竹をおあずけ中の犬に例えて冗談を言っていたことを考えると、高田が出入り禁止令を取り消すのも時間の問題だろう。
またあの静かな店で、カウンターテーブルを挟んで真っ直ぐに注がれる視線を感じながら佐竹のためにコーヒーを落とす日々が、戻ってくる。
佐竹に会える。
そう思うだけで心臓が忙しく動き始める、この感情の名前は分からないけれど……。
今の雪矢には、清々しい秋の空気に包まれた街が、いつも以上に鮮やかに色付いて見えた。
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