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○●○
「店長、お花が届いています」
「また!?」
高田が無事に帰国して『KARES』に日常が戻ってから数週間。
いつものように店の周りを掃除して開店準備に励んでいた雪矢は、すっかり顔なじみになってしまった配達員から「おはようございます」と手渡された花束を持って店に入った。
花束の差出人はデビッド=リー。
古森を助け出すために単身マレーシアの黒社会に飛び込んだ高田に一目惚れしたという、チャイニーズマフィア組織のナンバーツーだ。
渠龍組との取引の結果、古森と高田を帰国させることでは合意したものの、高田のことを完全に諦めた訳ではないらしい。
どうやって買収したのか花屋のチェーン店から毎日のように花束を届けさせ、たまに手書きのメッセージカードを添えてくるというマメさと熱烈な求愛行為に、雪矢は感心するしかなかった。
「またこんな高そうなモノを……あの男はこの店を乗っ取って花屋にでもするつもりなのかしらね」
「でも綺麗ですよ。このバラ、すごくいい香りです」
「うちはカフェだから香りの強い花は飾れないっていうのに、困ったわ」
「とりあえず、スタッフルームに活けておきますね」
差出人の職業から資金源を想像すると何とも恐ろしいが、花には何の罪もない。
連日届けられる花にスペースを占領され、むせ返るような香りに包まれたスタッフルームに入って何か花瓶代わりに使えるものがないかと探した雪矢の目は、棚に置かれた瓶を捉えた。
「あ……」
抱えている花束を飾るには高さの足りない、小さな空き瓶。
元々ピクルスが入っていたその瓶は、佐竹からのチップを貯めていたものだ。
高田がいなくなって以来佐竹にコーヒーを淹れることもなく、色々なことがあり過ぎてすっかり忘れてしまっていた。
花束をそっとテーブルの上に置いて瓶を手に取った雪矢は、予想外の重さに驚き、自分が思っていた以上に小銭が貯まっていたことに気付いた。
ある程度の金額になったらスタッフ皆で食べられるお菓子を買って、佐竹にもコーヒーと一緒に出してお礼を言おう。
そんなことを考えていた時期が、今は遠く懐かしい。
出会ったばかりの頃はただ、佐竹に「美味かった」と言ってもらえる一瞬が嬉しくて、来店を心待ちにしていたのに……。
『もう二度と、お前にこんなことはしない』
何かに堪えるような表情でそう言った佐竹の言葉を思い出して、雪矢の胸には鋭い痛みが突き刺さった。
「ユキヤちゃーん。ごめん、ちょっとお使い頼まれてくれる?……って、ユキヤちゃん? 大丈夫?」
「あ、はいっ! 大丈夫です」
買い物リストを手にスタッフルームに入ってきた高田が、ピクルスの空き瓶を手にぼんやりしていた雪矢に気付き、困ったように眉を下げた。
「それ……佐竹さんの?」
「はい。いっぱい貯まったら美味しいお菓子を買ってお礼を言おうと思ってたんですけど、機会を逃しちゃって」
小さな瓶を大切な宝物のように握りしめてそう口にすると、高田の細いキツネ目に戸惑いの色が浮かんだ。
「そんなに悲しそうな顔をしないでちょうだい。アタシまで泣きたくなるわ」
「別に、悲しいとかそういうことではないんですけど」
胸の奥を締め付けるこの感情が何なのか、雪矢には分からない。
「出禁を言い渡したのは余計なお世話だったのかもしれないわね。ユキヤちゃん、もしかして佐竹さんのこと……」
「違います」
高田が余計なことを口走ってしまう前に、雪矢はキッパリと言いきった。
「店長が俺のために怒ってくれたのは分かってますし、お店のことは店長が決めるべきで、新入りの俺が口出しするようなことじゃないですから」
「出禁のことはそうなんだけど……見事に流してくれたわね、ユキヤちゃん」
佐竹が雪矢に手を出したことを知った高田は、佐竹に『KARES』への出入り禁止を言い渡していた。
自分の不在時に大切なスタッフに手を出された高田の怒りを考えると、当然の措置といえる。
無事に帰国できるよう力を尽くしてくれたことについては感謝していて、取引のため必要になった金は渠龍組にいくつかの土地を転売するという形で返済できることになったのが佐竹の好意によるものだと分かっていても、それとこれとは別問題なのだ。
佐竹に出禁を言い渡して以降、伍代や良二がたまにフラッと店を訪れ、帰り際にテイクアウトのコーヒーを頼むようになったことから察するに、持ち帰り分のコーヒーは佐竹の胃に流れ込んでいるのだろう。
それを知っているからなのか、伍代や良二にテイクアウトのコーヒーを頼まれると、高田は決まって「ユキヤちゃん、お願い」とドリップ役を雪矢に任せるのだった。
世話になった先輩を許して今まで通りの関係に戻りたい気持ちと、店長として雪矢を守る姿勢を崩したくない気持ちとの間で高田が揺れているのが分かる。
だから、雪矢は高田の前で佐竹の話題を口にしないようにしていた。
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