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三上から話を聞くまで雪矢が佐竹の抱える複雑な事情を知らなかったように、佐竹も雪矢についてほとんど何も知らないに違いない。
お互いについてよく知れば、冷酷な金貸しの顔で夜の街を生きるこの男の素顔にもっと近付けるのかもしれないと思うと、雪矢の中に好奇心ではない何か特別な感情が湧き上がってきた。
身体を重ねたことで情が生まれてしまったのだろうか。
ずっとこの腕の中にいたいと願ってしまう、この感情は一体何だろう。
「――『KARES』は、俺にとって帰る家のような存在なんです」
優しい腕の温もりに包まれて半分まどろみの世界に引き込まれながらも、雪矢は佐竹に自分のことを知ってもらおうと、幼い頃の思い出を語り始めた。
「俺の父は田舎町で小さな喫茶店を経営していました」
それは、小さな小さな喫茶店で過ごした、優しい時間。
「母も店を手伝っていたので、まだ小さかった俺は毎日のように店に遊びに行っては二人に甘えて……両親と一緒に過ごした記憶は、家にいる時よりも店にいる時のものの方が多いかもしれません」
雪矢が語るのは、決して佐竹が抱えているような複雑な過去ではなく、珍しくもない普通の思い出話だ。
他人に聞かせたところで別に面白くもない話だろうと遠慮がちに話す雪矢の目を真っ直ぐに見つめて、佐竹は、眠気に呑まれた頼りない口調で紡がれる言葉の一つ一つに耳を傾け「甘えん坊なのは昔からか」と、すっぽりと腕に包まれて心地よさそうにまどろむ雪矢の髪を撫でて笑った。
「『この葉』っていう名前の本当に小さな喫茶店で、『KARES』みたいにお洒落な店ではないんですけど、初めて入った人でも落ち着ける雰囲気とか温かさが似ているんです」
コーヒーも。
幼い頃はその美味しさが分からなかったが、高田の淹れるコーヒーを初めて飲んだとき、昔父親が淹れてくれた味を思い出した雪矢の胸は、失くしてしまった宝物を見つけたような感動に震えた。
それ以来、『KARES』は雪矢にとって、幼い頃の大切な記憶の欠片を重ね合わせた理想の店になったのだ。
「子供の頃の俺は本当に『この葉』が大好きで……大人になったら当然、父と母と一緒に自分もあの店で働くんだと思っていました」
だが、大好きだった父と『この葉』の思い出は、雪矢が十歳になったところで終わってしまう。
原因は両親の離婚。特に珍しくもない、よくある話だ。
今になって思えば“よくある話”で、母に引き取られたことに不満がある訳でもない。
雪矢は父と同じだけ母を愛していたし、その後もそれなりに幸せと言える人生を過ごしてきているのだが。
まだ両親それぞれに事情があるのだということを理解できる年齢ではなかった子供の雪矢は、いつかまた父と母が一緒に暮らし始めるかもしれないという望みを捨てられずに、気持ちが宙ぶらりんになった状態で少年時代を過ごすことになった。
父親と『この葉』への想いが強くなったきっかけは、雪矢の中学入学をきっかけに母が決断した再婚と、妹の誕生だ。
ごく普通の会社員である遠山は雪矢を実の子同様に可愛がり、時には厳しく叱ってくれる存在で、雪矢が成人した今では二人で酒を飲みに行くこともあるほど仲は良い。
年の離れた妹・美雪も、生意気盛りだが意外にブラコン気質で、たまに実家に帰る度に甘えてくるのが可愛くて、ついついおねだりに負けてしまう。
ただ、新しい家族が増えたときに、当時中学生だった雪矢の胸に湧き上がってきたのは、これで自分が“お父さんの子”ではなくなってしまうのかもしれないという言い様のない喪失感だった。
そして、それからしばらくたって父もまた再婚し、双子の息子達が生まれたらしいと母から伝えられて……。
雪矢は『この葉』がもはや自分の帰る場所ではなくなったことを知ったのだった。
「そんな大げさに傷ついたりすることじゃないんですけどね」
話し終えてみると改めて、その大したことのなさが恥ずかしくなってしまう。
実の父親がヤクザの組長だったことを知ったときの佐竹の衝撃と比べると、いつまでもそんなことを引きずっている自分が申し訳なくなって、雪矢は逞しい胸の中にすっぽりと顔を埋めてしまった。
「傷ついて当たり前だろう」
「……え?」
男ならそんなことでくよくよするな、と言われても仕方ないと思ったのに、雪矢の身体を抱く腕に力を込めて囁いた佐竹の言葉に、雪矢はその腕の中でまどろみがちだった目を見開いた。
「ガキにとっちゃ、親が“帰る場所”で世界の中心なんだ。どんな理由でも、それがなくなりゃ辛いだろうが」
「佐竹さん……」
「だから、お前にとって『KARES』は特別な場所だったんだな」
低く優しい声の向こうに、大切な心の支えだったはずの母親を早くに亡くした少年時代の佐竹が見える。
まだ幼さを残した少年の佐竹が、自分に両手を差し伸べてくれたような気がして。
じわじわとこみ上げる涙と胸を満たしていく熱い思いを抑えきれずに、雪矢は大きな胸に顔を埋めたまま、今まで堪えていた涙をすべて出し切るかのように思い切り泣き始めた。
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