3


 佐竹が何故あんなことをしたのか、実際のところ雪矢にはよく分かっていなかった。

 借金の肩代わりを気にしなくてもいいように口実を作ってくれたのは間違いないだろうが、敢えてキスという手段をとったのは、自分を脅した雪矢に対する仕返しの意味も含まれていたのかもしれない。

 ただ、雪矢は、あのキスを嫌だと感じなかった自分に驚いていた。
 男同士であんなことをするなんて、今までの人生では考えられなかった大冒険だ。
 しかも、舌まで入れられるという本格的なキスだったにもかかわらず、雪矢はその行為を嫌がるどころか、佐竹の与える快感に酔って下半身を反応させてしまった。

 雪矢、と名前を呼ぶ甘いバリトンと、キスの後で頬を撫でていった大きな手の温もりを思い出すと、今でも身体が熱くなる。

「佐竹さんって、ものすごいテクニシャンですよね」
「ちょっと、ユキヤちゃん! 身体から落とされちゃ駄目よ!」
「やっぱすげえんだ、社長のテク……」

 皿磨きを続けながらポツリと呟いた言葉に高田と良二が顔色を変えて騒ぎ始めたその時。
 ドアのベルが鳴って、絶妙なタイミングで、今まさに噂の中心になっていた男が秘書を連れて姿を現したのだった。

「佐竹さん、伍代さん……いらっしゃいませ」
「げっ! 社長、オッサン!」
「出たわね、テクニシャン!」

 外の暑さをまったく感じさせず、隙のないダークスーツを見事に着こなした野獣の登場に、奥の席で良二に熱い視線を送っていた三人組の女性客が更にテンションを上げた様子が、振り向かなくても伝わってくる。
 世の中には、佐竹や伍代のような裏社会の香りを漂わせる危ない男に惹かれる女性も意外に多いらしい。

「えー、午後はずっと事務所だったんじゃないんスか」

 興奮する女性客たちとは逆に、さっきまでフリフリと振っていた見えない尻尾を丸めて、良二は何とか佐竹から距離をとろうとスツールごと後退りを始めていた。

「お前はここで何をしているんだ」
「ひっ!」

 逃げようとする良二を挟むようにして、佐竹と伍代がその両隣の席に腰を下ろす。
 気の毒な良二の怯えっぷりは、獰猛な闘犬二匹に挟まれて怯える子犬のようだ。
 高田が「リョウちゃんをいじめないでね!」と釘を刺しながら二人の前にお冷やのグラスを置いた。

「俺は、その、暑かったんでちょっと休憩を」
「そんな余裕があるならさっさと事務所に戻って働け」
「ひでーっすよ、社長。俺だってユキヤさんに会って話したいのに」
「コーヒーの味も分からんガキが生意気を言うな」

 不機嫌そうな顔で凄んでいても、実際には佐竹が良二を可愛がっているのが分かるので、そんな会話も何となく微笑ましい。
 高田に目で合図をされ、雪矢が佐竹と伍代のコーヒーを用意し始めると、佐竹は良二から目を離し、雪矢の手元にじっと視線を注いできた。

 佐竹はいつも、雪矢がコーヒーを落とす間中、こうして無言で熱い視線を注ぎ続ける。

「雪矢」
「はい」

 低い声で名前を呼ばれた瞬間、心の動揺を表すように細い湯の糸が揺れたが、雪矢は豆の膨らみから目を離さずお湯を注ぎ続けた。

「良二が迷惑をかけるようなら遠慮なく追い出してやって構わねえからな」
「迷惑だなんてとんでもない。リョウ君が通ってくれるおかげで最近は女性のお客様が増えてますし……遊びに来てもらえると俺も嬉しいです」
「……“リョウ君”?」

 その言葉で佐竹の顔が露骨に険しさを増し、良二の顔が青ざめたことに、コーヒーを落としていた雪矢だけは気付かなかった。

「おい、クソガキ。てめぇはそんな頻繁にこの店に通ってやがるのか」
「ちち違いますって。いや、違わないんスけど、俺は別にユキヤさん目当てって訳じゃ……。や、ユキヤさん目当てなんスけど、そういう意味じゃないっつーか……痛えっ! しゃ、社長、ソコは勘弁して下さい! 使い物にならなくなるっス」

 どうやら、雪矢からは死角になって見えないカウンターテーブルの下で何かが起こったらしい。
 涙目になってぷるぷると震える良二に、高田が慌てて助け船を出した。

「だって佐竹さん、最近あまりお店に来てくれないんだもの。リョウちゃんはアタシ達に佐竹さん情報を聞かせてくれてたのよ!」
「……ほう、どんな情報だ」

 佐竹の鋭い瞳は、落とし終えた二人分のコーヒーをカウンターテーブルに置く雪矢を見つめている。
 どんな情報だと聞かれて、雪矢は最近良二から仕入れた佐竹情報を必死に思い出していた。

「そうですね。佐竹さんは夜のお店の女の子達に人気があって、黙っていてもお持ち帰り希望の可愛い子達が群がって胸とかお尻を押し付けて色々サービスしてくれるという話はお聞きしました」

 雪矢としては佐竹のモテっぷりを褒めるつもりだったのだが、これはまずかったらしい。
 高田がぶるぶると首を振って無言の視線で雪矢に何かを訴えかけ、カウンター席の下では良二の身に更なる何かが起こったのか、大型犬の元ホストは「はうっ!」と奇妙な声を出してテーブルの上に突っ伏した。

「犬の躾がなってねえぞ、伍代」
「申し訳ありません」
「社長、マジヤバいっす。つぶ、潰れるっす!」

 これは、何とかしなければ。

 咄嗟に、雪矢はカウンターテーブルの上にあった佐竹の右手を、キュッと両手で握りしめていた。

「――おい」
「あ……申し訳ありません」

 さすがの佐竹も驚いたのか、何とも言えない表情で固まって、握られた手と雪矢の顔を交互に見つめている。

 隣の席の良二は解放されたらしく、咳込みながら「勃たなくなったらどうしてくれるんスか」と小さくぼやき、そこでようやく、佐竹の手を握る雪矢に気付いて固まった。

「あの、昨日ひと騒動あったとお聞きしたので、怪我はないかなと思って」

 何故こんなことをしてしまったのだろう。
 自分でもよく分からないまま、雪矢は動揺を押し隠して、うっかり握ってしまった佐竹の手を見つめた。

「あんなガキ共を相手にしたくらいで怪我も何もねえよ」
「強いんですね」
「……それなりに修羅場をくぐらねえと、金貸しなんて商売はやっていけねえからな」

 ゴツゴツと骨張った手は大きく、確かに、この拳で殴られたら一発でダウンしてしまいそうだ。
 この手がキスの後で、雪矢の頬を優しく撫でていった。

「逃げられないんだろうな……佐竹さんからは」

 仲間に匿われていたという良二のホスト仲間を探し出し、情け容赦ない取り立てを行ったというこの男から、逃げて借金を踏み倒すことなど不可能なのだろう。

 そんなことを考えながら何気なく呟いた一言に、佐竹の瞳が鋭い光を放った。

「ああ、逃がさねえ。一度狙った獲物は絶対にな」
「……!」

 佐竹の右手を包み込んでいたはずの両手を逆に強く握り返され、雪矢は言葉もなく、佐竹の目を見つめたのだった。



 ――この時。
 店にいた誰もが、想像すらしていなかっただろう。

 いつもと同じように笑顔で客を迎え、店を切り盛りしていた高田が、その数日後に姿を消してしまうということを。




(*)prev next(#)
back(0)


(20/94)
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -