7
「柚木」
毛を逆立てて威嚇の体勢に入った長野君の向こう側から、北山さんが低く優しい声で俺を呼ぶ。
恥ずかしがり屋の北山さんは、普段俺のことを「坊主」としか呼んでくれないから、こんな風に名前を呼ばれただけで身体中の血はじわっと熱くなってしまった。
「駄目ですよ、柚木さん。何があったかは知らねえけど、こんなトコで恋人を泣かせるような奴に柚木さんは渡せません」
「それはお前が決めることじゃねえだろうが」
「俺らゲイの気持ちは仲間同士じゃなきゃ分からないっす」
「来い、柚木」
「長野君、ごめん!」
「えっ!?」
相変わらずの無愛想な顔で、それでも誰よりも優しい男前料理人が逞しい腕を広げて、もう一度俺の名前を呼んでくれた瞬間。
俺は長野君の腕から抜け出して、北山さんの胸に飛び込んでいた。
「北山さん……!」
「顧客サービス部の部長さんが、お前が泣きそうな顔で屋上に上がって行ったって教えてくれてな。……俺が、泣かせたのか?」
「っ、勝手に帰って、すみませんでした。メールも電話も、くれたのに」
「いや、悪かったのは俺だ」
「俺、北山さんが男を抱くのは無理でも、それでも側にいたいんです……っ」
「柚木……」
温かくて、大きな胸。
白衣から立ちのぼる日替わり定食の中華っぽい香りが、ふんわり俺を包み込んでくれる。
「何すか、この甘い雰囲気! 二人とも、俺の存在忘れてません?」
ごめんね、長野君。
好きだって、真っ直ぐに気持ちを伝えてもらえてすごく嬉しかったけど。
俺はどうしても北山さんが好きで、北山さんじゃなきゃ駄目なんだ。
さっきまで、別れようなんて考えていたけど、こうして顔を見てしまったらやっぱり離れたくない。
「きたやまさん……」
大好きな北山さんの腕に抱かれて安心したせいか、俺の目からは堪えていた涙が溢れてポロポロとこぼれ落ちた。
「いつまで見ている気だ。さっさと仕事に戻れ、見習い」
「うるせーよ、オッサン! そんなに柚木さんが大切なら泣かせんなよ。最近ずっと不安そうな顔して落ち込んでたのだって気付いてたんだろ!」
長野君の言葉に反応して、俺の身体を抱きしめる腕にぐっと力がこもる。
いつも笑顔で人当たりのいい長野君がめずらしく敬語を使うことも忘れて北山さんにくってかかる態度の裏には、俺を思ってくれる気持ちの他に、ノンケ男を好きになってしまったことのあるゲイならではの本音が隠れているような気がした。
女を好きになれる男は、ほだされたり、興味本位で男を受け入れてみたとしても、最後には結局女を選んで別れを切り出すことが多い。
だから長野君は、ノンケの北山さんが俺と付き合っていることを知って、俺が北山さんに傷つけられるんじゃないかと心配してくれているんだろう。
「長野くん、俺は……」
この先傷つくことがあっても、北山さんと一緒にいたい。
そう伝えるつもりだったのに、北山さんの腕の中から長野君に顔を向けようとしたその時、顎の下に当てられた大きな手が俺の顔を上に向けたかと思うと、開きかけた唇は近づいてきた北山さんの唇にふさがれてしまった。
「ん、ん?」
触れ合った肌の熱を確かめるように、何度も角度を変えて重ねられる唇と、密着させられた身体。
これはもしかして、キスをされているんじゃないかと気付いたときには、屋上に長野君の悲鳴が響いていた。
「ふぅ、あッ、きたやま……さん!?」
強引に押し入ってきた舌で咥内を舐め回されて、何だか北山さんに食べられているみたいな気持ちになってくる。
長野君が見ているのは分かっているのに、未だかつてない北山さんの激しいキスに、腰砕け状態になった俺は自分の力で立っていられなくなって、俺を抱きしめる逞しい腕に身体を預けた。
「抱けない訳がねえだろ、今だって限界寸前だ」
「……んっ」
耳元で甘く囁いて、北山さんが下半身を更に密着させてくる。
腰に押しつけられた雄の部分は、これでもかというほど硬く立派に育っていた。
「最初のあの日……年甲斐もなくサカって病人のお前に無理をさせちまったからな。正式に付き合い始めてからは、ちゃんと段階を踏んで大切にしたかった」
「……!」
「俺の言葉が足りないせいで不安にさせて、本当に悪かった」
まさか、北山さんがそんなことを考えてくれていたなんて。
そんなに、俺のことを大切に思ってくれていたなんて。
「かっ、会社の屋上でサカってんじゃねーよオッサン! 柚木さんに……何てことを!」
何が何だかよく分かっていないまま濃厚なキスに陥落してしまった俺よりも、見たくもない職場の先輩のラブシーンを見せつけられてしまった長野君の方が恥ずかしいのか、首筋から耳の先まで真っ赤になって動揺している。
そんな恥ずかしいことを堂々とやってのけた当本人は、俺を抱いたまま、男前の顔に悔しくなるくらいカッコイイ笑みを浮かべて鼻を鳴らした。
「見学はここまでだ。この先はガキには刺激が強いぞ」
「なっ……!」
北山さんの言葉に刺激の強いアレコレを想像したのか、調理用の白衣が板についてきたイケメン料理人君は赤くなった顔を更に真っ赤に染め、拳を固く握って。
「俺は諦めないっすよ! 若さとテクで、いつか柚木さんを奪ってやる!」
何だかものすごい捨て台詞を残して、俺たちの前から走り去って行ったのだった。
(*)prev next(#)
back(0)