act.4
いつもご機嫌斜めの空も今日は機嫌がいい。
窓を開け放つと、目の前には青い海と青い空、心地良い潮風。
私は一人腕を真上に上げて体を伸ばす。
毎日欠かさず誰かが部屋に来ていたのに、今日は珍しく誰もいない。
忙しいのか、もう見張る必要はないと判断されたのか、よく分からないけれど、部屋の中がとても静かに感じられた。
少しの間ぼーっとただ海を眺めていると、誰かが部屋のドアをノックした。
「波光の宮様、いらっしゃいますか?」
聞き慣れない女性の声。
ハコウノミヤサマとは私……じゃない、芽琉さんのことだろうか。
だとしたら、出ないわけにいかない。けれど、まだ芽琉さんのフリが出来る自信が無い(と言うか、そもそもご本人がどんな人なのか知らないのだから上手く出来るわけがないような気もした)。
橙真さんに『困った時は体調があまり良くないフリでもしておけばいい』と言われたのを思い出して、少しだけドアを開けて顔を出す。
「あ……は、波光の宮様、おはようございますっ」
そこには、私と同じくらいの歳の女の子が立っていた。服装からしてメイドさんだ。
「お、おはようございます……」
緊張しているのか頬を赤くして俯いてしまった。
私なんかにそんな反応されたら困ってしまう。本当はただの一般人なのに。
どうしたらいいか分からずにお互い立ち往生していると、助け船が出された。
杏李さんだ。
「波光の宮様に何か用でも?」
「あ、杏李さん……はい。月華の宮様に、これを渡してほしいと言われて……」
メイドさんが躊躇いがちに差し出してきた物は洋服らしき物だった。
「何故そんなものを……」
「えぇっと……杏李さんの付き添いで気分転換に外へ出てはどうか、と日向の宮様が仰っていたそうです」
杏李さんが私を見る。
なんだか面倒事を押し付けられたようで申し訳ない上、どことなく冷たい視線に蛇に睨まれた蛙の気持ちになる。
「……分かった。仕事に戻っていい」
メイドさんが深々とお辞儀をして下がる。
その姿が見えなくなると杏李さんは、
「だそうですよ」
と服を差し出してきた。
「あ、あの……杏李さん忙しいと思うし、私そんな気分転換なんてしなくても大丈夫ですから……」
本当は部屋に篭りきりで息が詰まりそうなのだけど、杏李さんに迷惑を掛けるのは忍びない。
何より、こんな状態で二人で出掛けたって気まずい。
けれど杏李さんが差し出した服を戻すことはなかった。
「……俺は、ただあの二人に従うだけですから」
それもそうだ。
まだ知り合って間もない私より、長い間仕えてるであろう橙真さんや悠月さんの言葉の方が杏李さんにとって重みがある。そんなことは明々白々。
ここは、橙真さんのお言葉に甘えることにした。
外は予想以上に日差しが強かった。
よくよく考えると、これがこちらの世界に来てから初めての外出になる。
当然、見るもの全てが知らない景色だった。
建物や街道は白で統一され、至る所に水路がある。
綺麗な水が白一色の街をさらさらと流れていく様子は綺麗で神秘的。
決して元の世界では見ることのできない光景を目に焼き付けようと、私は杏李さんの横で、周りを見渡しながら歩いた。
会話なんて無かったけれど、元々おしゃべりするのは得意ではないし、目で楽しめていたから苦痛は感じなかった。
ただ、ものすごく暑い。
もちろん気温が高いのもある。けれどそれ以上に、服装がこの炎天下に不相応な気がした。
いつものような床に付く程長いドレスではなくて、深い青色で膝丈のワンピース……というかローブ。更に目元まで隠すヴェールを頭から被っている。
風が吹いてもちっとも感じることが出来ない。
人様に用意してもらったのだから大きな口は叩けないけれど。
「あの、これ、脱いでもいいですか?あっつくて……」
「ダメです」
即答されてしまった。
それもそうだよね。
今の私は、偽物とはいえ有名人なわけだし。
杏李さんの言いたいことは理解出来ても、暑さは和らがない。
ちょっとだけ外を歩き続けるのが憂鬱になって肩を落とす。
そんな私に気付いてか否か、杏李さんが溜息をつく。
「見て分かりませんか?この国には俺のような髪色の人間ばかりなんです。あなたがソレを外したら、嫌でも目立つんですよ」
擦れ違う人々の髪を入念にチェックする。
来る人行く人、みんな水色。杏李さんの髪も、水色。
人によっては濃かったり薄かったりするけれど、橙真さんのようなオレンジも悠月さんの金色も、私のような紺碧も今のところ見かけない。
「あれ……もしかして、だから国名が“蒼”?」
「俺はそう聞いて育ちましたが」
「そうなんですか」
ちょっとばかりダジャレみたい。
そう思ってしまったせいか、意識して言葉が出てこなくなる。
また沈黙してしまう。
でも、“蒼”という国について、ほんの少しだけど分かったことが嬉しい。
もう一度見渡すと、本当に水色の髪をした人ばかりだ。
これだけ同一色の髪を持つ人ばかりだと、違う髪色の人がいたらすぐに分かっちゃいそうだなぁ。
そうぼんやり思った直後、はっとして足を止めた。
釣られて立ち止まり、怪訝そうな顔をする杏李さんを見上げる。
「ということは、由乃ちゃんを見かけたらすぐに分かるってことですよね?」
「よしの?誰ですか、それは」
ああ、そうか。橙真さんと悠月さんには話したけれど、杏李さんは知らないんだ。
私は、この世界に来る直前もう一人女の子が一緒だったことや、その友達が“椿木由乃”という名前でこの国にはいないであろう茶髪であることを話した。私が異世界から来たらしいことは知っていたのか、話している間驚く様子はなかった。
杏李さんは、口元に手を当てて何かを考えていた。
「確かに、その容姿ならばすぐに見つかるでしょう。故に、この国にいるのであれば今頃地下牢にぶち込まれていてもおかしくないはずです」
「え……地下牢?」
とても物騒な言葉だった。
「不審な人物はまず宮殿へ連行するのが普通ですから。俺は元衛兵隊員なのでその辺の事情にも詳しいですが、最近は誰も牢に入っていません」
「そうですか……」
要するに、この国には由乃ちゃんはいない。
由乃ちゃんが捕まっていないという安心感と、結局どこにいるのか分からないという焦りと不安がごちゃ混ぜになる。
私は少し寂しくて心細いけれど、こっちの世界に来ていないのだとしたら、それが一番いい。
だから、この結果は良かったんだと思う。
「あの、ありがとうございます。アドバイス、くれて」
杏李さんは『……あなたは少しおかしな人ですね』と顔を背けてしまった。
杏李さんが助言してくれなければ、私はひたすら由乃ちゃんを探し歩いていただろうから感謝の言葉を述べたのだけど……
何か気に障っただろうか。
……話題、変えた方がいいかもしれない。
「そっそれにしても、杏李さん、元衛兵隊員だなんてすごいですね!衛兵ってことは、宮殿を守る為に戦ったりするんですよね?」
「表向きではそうですが。実際この国は平和すぎて魔物の襲撃なんてほとんどありませんから、罪人の首を斬るのが仕事のようなものでしたよ」
「そ、そうなんですか」
余計に空気が重くなってしまった。
まだ宮殿に戻るには早すぎるし、頑張って何か話題を考えなければ……
冷や汗を拭いながら、明るく努める。
「えっと……そうだ、せっかくだから、この国の珍しいものとか、この世界ならではのものとか見たいなぁなんて……」
「珍しいものなんて何もありません。海しかない国ですから」
「海……じゃあ海に行きませんか?」
「別に構いませんが……そんなもの見て面白いんですか?」
「面白いかは分からないですけど……でも、私好きですよ、海」
「海が好き、ですか……」
それっきり杏李さんは黙ってしまった。
何か言いたそうなのだけど、口にしてくれそうにない。
やっぱり気に障るようなこと言ってしまったのかな、と不安になる。
「あの……」
「手頃なので宮殿の裏でいいですね?」
「えっ!あ、はい。いいです」
何事も無かったかのように歩き出す杏李さんに続く。
沈黙は先程もあったのに、今の方がずっと気が重い。というより気まずい。
無言で歩き続けてしばらくすると、宮殿へと戻ってきた。
けれど中へは入らず、外壁沿いに裏側へ回る。
「わあ……気持ちいい風」
いつも窓から見ている光景だけれど、砂浜を踏み締める感触や潮の匂いは、やはり心を和ませてくれた。
澄んだ青がずっと続いている。
海岸にはゴミ一つ落ちていないし人もいない。
きっと、こんなに居心地のいい海は初めてだろう。
海を見たからには、まず指先を海水に漬けて舐めてみる。
うん、しょっぱい。
杏李さんが不審そうな顔をしているけれど、気付いていないことにしておこう。
「そういえば、私はここで見つかったんですよね?」
「さあ。俺が見つけたわけじゃありませんから」
「……それもそうですよね」
会話が弾まない。
杏李さんはあまり人と話すのが好きではないのかな。それとも、相手が私だからなのかな。
そうだとしたら悲しい。
「こうして、また“波光の宮様”とこの場所に立つ日が来るなんて……」
「え?」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、杏李さんは言った。
その表情がどこか辛そうで、何も言えなくなる。
先程とは違った気まずさが漂う中、異質な音が空気を裂いた。
─グワァァァッ
まるで獣の鳴き声のような。けれどそれ以上に凶暴なものが発しているのだと本能が感じ取る。
耳を塞ぎたくなる大音量、気を抜いたら飛ばされてしまいそうな突風。体が強ばった。
顔を上げれば、そこに青々とした空はない。
視界を全て占める程の巨体が、私達に迫っていた。
「な──」
『何あれ』と言いたいのに声にならない。
逃げなければ。このままでは押し潰される。そうなったら確実に命は無い。
なのに、体はその場を動こうとしてくれない。
「っ!」
堅く目を瞑る。もうダメだと半ば諦めていた。
けれど来る筈の痛みが、いつまでも来ない。代わりに、大きな腕が私を庇うように包んでいた。
「あ、杏李、さん……」
今までで一番近くに、杏李さんの顔が在った。
黒い物体の正体は鯨だった。いや、違う。“鯨に似た何か”が目の前でのた打ち回り、その巨体には太い氷柱がいくつも刺さっている。
痛みを振り払うかのように唾液と鮮血を飛び散らして、“ソレ”は牙を剥いた。私達めがけて。
「魔物の分際で……!」
杏李さんが私を抱き上げて飛び退く。
間一髪の所で避け、少し離れた場所で鯨モドキに手の平を向けた。
やがて杏李さんの手が紫の光を纏い、黒い巨体が稲光に包まれる。
痛々しい声を上げて、それは動かなくなった。
心臓が、張り裂けそうになるくらい脈打っている。
私を砂浜に下ろすと同時に、杏李さんは崩れるようにして座り込んだ。
「杏李さんっ」
強く押さえている右腕を見ると、深い傷が背中にまで続いていた。
私を抱えて避けた時、もしかして避けきれなかった……?
「あの状況で………突っ立っている奴があるか……っ」
すごく苦しそうな表情に、自分の情けなさを呪う。
私のせいで傷ついてしまった杏李さん。未だ消えない恐怖も相まって涙が溢れた。
「ごめ…なさい……っ」
「泣かないでください。むしろ喜ぶべきですよ。あなたは、助かったのですから」
頷きながら、しきりに流れる雫を拭った。
「それに……この程度の傷、自分で癒せますから」
杏李さんの手の平が、今度は水色に光る。その光が消えると、綺麗に傷が癒えていた。
先程の氷柱も落雷も、この治癒も、全て魔法なんだろう。
よろけながら立ち上がろうとする杏李さんの体を支える。
視線の先には、焦げて煙の立つ黒い塊。
「あれが……魔物……」
「浜まで来る筈は無いのですが……」
何か、嫌な予感がした。
「それにしても……」
立ち上がろうとしてよろめく杏李さんの体を支える。
拒絶されるのではないかと少し怖かったけれど、そんなことはされなかった。
代わりに、苦笑のような微笑のような微妙な笑顔を向けられた。
「初めて、仕事らしい仕事をした気がします。あなたを守れて良かった」
どくん、と心臓が跳ねたようだった。
嫌われていると思っていたのに、そんな顔でそんなこと言うなんて反則だ。
「あ、あの……今日はもう、戻りましょうか」
直接顔を見ることが出来なくて、苦し紛れにそんなことを口走っていた。
「そうですね。少し休ませてもらうことにします」
杏李さんが私から離れ、一人で歩き出す。
心配なので付き添って宮殿へ戻り念の為メイドさんに救護をお願いすると、私は橙真さんと悠月さんに一部始終を説明した。
現場を見たいという二人を連れて、また浜へ戻る。
私は怖くて遠目に見ているしか出来なかったけれど、橙真さんも悠月さんも勇敢に魔物を武器でつついていた。
「派手にやったな」
「こんなデカい鯨型初めて見たよ。厨房まで運ぶ?」
「俺は魔物を食す趣味はない」
橙真さんが溜息をつく。
二人のやり取りには余裕が感じられて、すごいなと感心した。私なんてまだ体が震えていたし、心臓もうるさかった。
「お前も早く剣を覚えた方がいい。魔法が扱えるならばそれでも構わないが、使えないようだからな」
橙真さんが真面目な顔で言った。
「でも、私……こんな恐ろしいものと戦うなんて、とても……」
「悠月も言っていたが、これだけ大きいものはここに長く住んでいる俺達も初めて遭遇した。普段は魚型ばかりで、それも極稀だ。どちらにしても、何もしないよりはいいだろう」
確かに杏李さんも、この国は平和すぎて魔物の襲撃はほとんどないと言っていた。本当に今回のようなことは稀なんだろう。
万が一に備えて、ということなら覚えておいて損は無いのかもしれない。
まだ不安は拭い切れていなかったけれど、頷いた。
「……可哀想に。初めて宮殿の外に出たというのに、こんな目に遭うなんてな」
橙真さんが、私の頭を撫でる。髪の流れに沿って、何度も。
恐怖とは違ったドキドキに襲われながらも次第に安心していった。
「それはそうと、まさかこんな大きい魔物がここまで来るなんてね」
黒い塊を見つめる悠月さんが、顎に手を当ててぽつりと呟いた。
先程のおどけた様子とは打って変わってその表情は真剣そのもので、魔物の出現に関して詳しくない私でも、それがどんなに大変なことであるか実感させる。
「波光の加護が失われた蒼は無防備だからな」
その言葉に突然、胸がざわついた。
「この鯨型は生態研究にでも使ってもらうとして、とりあえず戻ろう?流羽も疲れただろうし、宮殿は魔法壁で守られていて安全だからね」
悠月さんに背中を押され、引き返す。
結局騒ぎが沈静化した後も、胸騒ぎの原因は分からなかった。
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