胡蝶の夢〜偽りの青〜 | ナノ


act.3


『あっ』と思った時既に遅し。
大きな音を立てて、全身が床に打ち付けられた。
バサバサと何冊もの本が散らばるのが分かった。

「……大丈夫か」

哀れみをはらんだ声が降ってくる。
顔を上げると、橙真さんが手を差し伸べてくれていた。
ご厚意に甘えて立ち上がらせてもらう。
こんなことを、一体今日だけで何度繰り返したことだろう。

時を遡ること三日。
私にプレゼントがあると言って部屋から出ていった悠月さんが戻ってくると、見たことのない服を突き出された。
それは裾が床に付くようなドレスで、私の私生活では着ることはもちろん、見ることもないであろう物だった。

自分に似合うはずがないのは百も承知だったけれど、今までのように制服じゃあ違和感がありまくるので仕方ない。

とりあえず見た目が女王様らしくなると、次の日からは杏李さんが来て、テーブルマナーやら歩き方、姿勢などを厳しく指導されていた。
今日は橙真さんが来ている。
これまで毎日誰かどうか部屋に来ている辺り、監視目的も兼ねているのかもしれない。

橙真さんは一人で本を読んでいるので、自習と銘打って頭に本を載せて姿勢良く歩く練習をしているのだけれど、やっぱりドレスに馴染みがないせいか裾を踏んで転倒してばかりだった。
その度に、橙真さんは読みかけの本を閉じて、こうして手を差し伸べてくれていた。

「すみません……何度も何度も……」

痛む鼻をさすりながら頭を下げる。

「いや。俺達の方こそ、こんな訳の分からないことを頼んだりしてすまない」

散らばった本を拾い上げてくれた橙真さんに苦笑する。
確かに訳が分からないので、とっさに『そんなことないです』とは言えなかった。

橙真さんは優しい。本当に、あの悠月さんと双子なのか疑うくらいに。
だから、訊いてみてもいいかもしれない。どうして、こんなことをさせられるのかを。
成り行きでこうなってしまったとはいえ、ただ言いなりになっているのも嫌だから。

受け取った本を強く握った。

「あのっ、私はなんでこんなことをさせられているんでしょうかっ」

緊張のあまり、途中声が裏返ってしまった。
けれど橙真さんは笑わずにいてくれた。

「悠月は何も説明していないのか……立ち話もなんだ、座ってくれ」

言われるがままソファに座る。
こちらの世界に来て最初に目が覚めた日のように、橙真さんは向かい側に座った。
真剣な眼差しに、唾を飲む。

「これから話すことは機密事項だ。他言しないと約束してくれるか?」

「分かりました」

この約束は絶対に守れると言い切れる。
何故なら、私は“こっち”に知り合いなんて一人としていないから。
そんなことを言ったら場の空気が乱れそうなので、黙っておくけれど。

橙真さんは頷き、一呼吸置いてから言った。

「現在、お前が代わりを務めているこの国の女王が行方不明になっている」

「……え」

それって一大事じゃないだろうか。
あまりにさらっと言われたので、事の重大さを認識するのに数秒掛かってしまった。

「この部屋は宮殿の一角なんだが、階下に数十人の使用人も住んでいる。混乱を避けるために『体調を崩していて部屋から出られない』と言ってきたが、予想外に捜索が長引いていてな。それこそ無駄な混乱を招き掛けているところに、お前が現れた」

私に向けられていた視線が、床に落とされた。

「……俺と悠月を含め、この国の王はヒトとして特殊だ。もしかしたら、流羽が何か関与していることも考えられる。お前自身は無自覚かもしれないが。來海芽琉(くるみ める)という名、もしくは、お前と似ている者を知らないか」

「ごめんなさい、分からないです……」

自分とそっくりだったり、そんな可愛い名前だったら忘れないだろう。

「そうか……」

肩を落とす橙真さんを見ていたら、なんだか悪いことをした気分になってしまった。
異世界の人のことなんて知らなくて当然とは思いつつも、何も力になれないことが不甲斐ない。
けれど、沈んだ気持ちを振り払うかのように、とある出来事が頭に浮かんだ。
思い起こされた、と言った方が正しいかもしれない。

自分の世界にいた頃、頻繁に見ていた夢。
幼い私の視点で描かれた、幸せで悲しい夢。
親しく話している二人の少年……あれは、橙真さんと悠月さんだ。
大人になっている分雰囲気は違うけれど、間違いない。

ということは、あの夢に出てきた“私”は、私じゃなくて來海芽琉さんという女王様かもしれない。

そして、酷い耳鳴りの中で聞こえた『助けて』という声。

全て前兆だったんだ。
私がこの世界に来てしまったのも、偶然じゃなかった。
助けを乞う誰かに呼ばれて。

誰に?

もし、声の主が芽琉さんだとしたら、今もどこかで苦しんでいるのではないだろうか。

「あの、もしかしたら見当違いかもしれないんですけど……」

それらを、橙真さんに全て話すことにした。
ーーー…

「失踪した原因も、誘拐とか……」

全て話し終えると、橙真さんの眉間には深い深い皺が刻まれていた。

「それは、どうだろうな……何しろ、芽琉にはここを出て行く動機があった」

つまり、自分から出て行ったということだろうか。
だったら家出した先で辛い目に遭っているとか?

そもそも、あの声は芽琉さんのものなのだろうか。
あの夢に登場していたのが芽琉さんだからって、声も芽琉さんとは限らない。

けれど、芽琉さんの失踪と、私がこちらの世界に来たことは何か関係がある気がする。

「すまない。黙ったりして」

しばらく続いていた静寂を橙真さんが破る。いつの間にか、二人して考え事に没頭していたようだった。

「芽琉のことは俺と悠月でなんとかする。気にするなと言っても無関係でない以上無理だろうが、お前は気にしなくていい」

橙真さんは立ち上がると、私の頭にぽんと手を置いた。
どうしてだろう。とても温かい気持ちになった。

「辛気臭くなってしまったな。せっかく天気もいいことだし、外に出るか?ずっとこの部屋にいるのだろう?」

窓の外に広がる空は、こちらの世界に来て初めての快晴。
まだ芽琉さんとして人前に出る自信は無いけれど、確かに日の光は浴びたい。

私が頷くと、橙真さんがまた手を引いて立ち上がらせてくれた。

「バレることはまず無いだろうが、困った時は体調があまり良くないフリでもしておけばいい。すぐそこだ、気楽にな」

とは言われても、初めて部屋の外に出るのだから緊張する。
深呼吸して、橙真さんにエスコートされながら廊下へ出た。
真っ赤な絨毯がずっと続いている。天井も高い。
あまりあちこち見渡していたら不自然なので、俯き加減で歩いた。
途中、数人のメイド服を着た人(正真正銘のメイドさんなんだろう)に『もうお加減は宜しいのですか?』とか『歩いても大丈夫なのですか?』とか興奮気味に訊かれたけれど、全部橙真さんが受け答えしてくれて助かった。
本当に芽琉さんと私は似ているようで、誰も偽物だとは疑っていないようだった。
騙しているようで少し罪悪感があるものの、仕方ないと割り切ることにする。でないと、これからやっていけない。

そうして、五分も歩かないうちに橙真さんは立ち止まった。

「ここだ」

顔を上げてみると、ガラス戸の向こうに庭園が広がっていた。

「うわぁ」

一歩踏み入れて、思わず見入ってしまう。
中心部には大きな噴水があり、四方に水が流れていた。簡単な橋も架けられている。
周りは壁に囲まれているので中庭といった感じだった。
上は吹き抜けていて風があり、雑踏から外れて鳥達の声とせせらぎだけが聞こえるこの空間は、とても癒された。

あぁ……ここだ。少しだけ雰囲気は違うけれど、夢に出てきていた場所だ。

「宮殿の外に出ることは難しいが、ここなら出入りは自由だ。好きな時に来るといい」

いつでも来ようと思った。
……晴れの日限定で。

「ああ、そうだ。お前、剣の心得はあるのか?」

「剣?竹刀なら、剣道の授業で少し使ったことありますけど……あと、新聞紙丸めたやつを小さい時に」

橙真さんが眉間に皺を作る。
私、何かまずいことを言っただろうか。嘘はついてないはずなのだけれど。

「よく分からないが、それは切れるのか?」

「えっ、そんなわけないじゃないですか。危ないです」

子供のチャンバラや剣道で真剣を使っていたら……殺伐としすぎていて笑えない。

「真剣は扱ったことはないのか」

「全く……そんな物騒な物持ってたら捕まりますから」

「捕まる?誰にだ」

「警察です」

「なんだそれは」

「悪い人を取り締まる組織……かな?」

「…………」

直感で、嫌な空気が流れていると感じた。
もしかして、この世界には警察やそれに準ずる人がいないのだろうか。
つまり、悪人は野放し?
この蒼という国は、随分恐ろしい所のようだ。

「では、流羽は魔法特化なのだな」

「そういうわけじゃ……魔法なんて私の世界には存在しないし……」

「それでは、どうやって魔物と戦っている?」

「え?魔物?」

『そんなものも存在しないです』と言おうとしたけれど、別の考えが頭を過ぎって口に出さずに終わる。
私が想像する“魔物”とは、人間とは異なる姿をしていて、人間を襲ってくる実に非現実的なもの。
橙真さんの口振りでは、その非現実的なものが当たり前のように存在しているみたいに聞こえる。

「えと……出る、んですか?」

「この国は島国だから比較的安全だが。……まさか、お前の世界では出ないのか?」

「……はい」

「…………」

お互い無言になる。
私が“耳を疑うようなことを聞いた”と感じたように、橙真さんもまた同じ気持ちなんだろう。

「信じていなかったわけではないが、お前は本当に異世界から来たのだな」

心中を察する。私も、こっちの世界に来てから、何度そう思ったか分からないから。

「今更な気もするが、何か分からないことや困ったことがあれば遠慮なく言ってくれ」

橙真さんが微笑む。
本当にこの人は親切だ。右も左も分からないこの世界で、今一番頼りになる存在と言える。
だから、切実な思いを伝えてみることにする。

「それじゃあ、帰る方法を探してもいいですか?図書室とか資料室があったら、自分でなんとかしますから……」

「すまないが、資料室は重役以外立ち入りを禁止されている。代わりに、俺が探しておこう。どうせ今、あの場所にある書物を片っ端から読み漁っているところだ」

「いいんですか?」

橙真さんも悠月さんも私の世界の文字が読めなかったので、私もこちらの世界の文字を読めない気はしていた。なので、その申し出はありがたかった。

「その代わり、と言うのもおかしいが、しばらくは芽琉の代役を頼む。捜索に集中するためにも」

「はい。やれるだけのことはするつもりです」

“女王様の代わり”というのは荷が重いけれど、寝泊まりする場所を提供してもらっていて食事も無料で出してくれているのだから、恩返しはしなければならない。
何より由乃ちゃんのこともあるから、やらないわけがない。

橙真さんは苦笑しながら空を見上げた。眩しすぎる太陽に、手を翳して。

「交換条件を突きつけるなんて、俺も悠月と変わらないな。……俺達は兄弟なのだから、当然と言えば当然か」

風が木の葉を揺らし、音を奏でる。
どうしてだろう。正体不明の胸騒ぎがする。

けれど、

「そういえば、お前の部屋に悠月と杏李が揃った時の様子はどうだ?」

突然の質問によって、胸騒ぎは跡形もなく消え去った。

杏李さんは、世話係として毎日部屋の掃除やベッドメイキング等をしに来てくれている。
至れり尽くせりで、本当にお姫様の気分だ。任せっきりで申し訳ない気持ちもあるけれど。
悠月さんは時々ふらっとやって来て、おしゃべりして帰って行く。

杏李さんがいる時に悠月さんが来たことも一度あったけれど、特に気になるようなことはなかったように思う。
ほとんど目を合わせていなかったし口も利いていなかったものの、主従関係なのだから親しげにすることもないだろうし、別に普通なんだろう。

「取り立てては……」

「そうか。お前が気を遣うようなことになっていないのなら、それでいい」

本当に、感心してしまうくらい橙真さんは優しい。こんな小さな事も気にかけてくれるのだから。

そのうち、改めて何かお返ししたいな。



──この時の私はまだ、悠月さんと杏李さんの間に因縁があるだなんて、知る由もなかったのだった。




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