act.2
「はい、コイツ、流羽の世話係の杏李(あんり)」
悠月さんが知らない人を部屋に連れてきたのは、私が“こっち”の世界に来てから一夜明けてのことだった。
昨夜、突然異世界に飛ばされて、なおかつ女王様の代わりをすることになり、私の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
由乃ちゃんのこと、家族のこと、受験のこと……そして、これからのこと。
心配事が多すぎて夜なかなか寝付けず、やっと眠れたと思ったらノックの音で起こされた。
悠月さんが見知らぬ男性と一緒に入ってきて、今に至る。
「世話係?」
「そう。王とはなんたるかの指導とか、身の回りの世話とか」
「はあ……」
寝不足で頭が回らず、具体的にどんなことをされるのか想像も出来ない。
曖昧な返事をして杏李さんを見上げる。
肩まで伸ばした髪が、綺麗な水色をしていた。
「大崎流羽です。よろしくお願いします」
自分の置かれている状況はよく分からなかったけれど、初対面なので自己紹介する。杏李さんが『こちらこそ』と会釈した。
「それじゃ、まず見た目の改善からね。杏李、やって」
「何するんですか?」
「とりあえず、髪を切るとこから」
「えっ!そんな突然……」
杏李さんが、廊下から道具を持ってきて、黙々と準備を始める。
絨毯の上にビニールシートのような物を広げ、真ん中に、ドレッサーに備え付けられていた椅子を置く。
口を挟む間もなく準備が整い、促されるままそこに座ると、鏡に私の姿が映った。
確かに、こんな女王様嫌だと自分で思うくらいボサボサな頭だった。
杏李さんが私の髪に櫛を通していくのを眺める。時折鏡越しに目が合い、恥ずかしくて視線を逸らした。
「ところでさ、流羽」
「はい?」
ソファでくつろいでいた悠月さんが、立ち上がってこっちへ来た。
「そのダサいやつ、なんとかならないの?」
「ダサいやつ……」
指差された場所にあったのは、普段使っている眼鏡。
長年愛用している私物をけなされて、少しヘコむ。
「視力が弱くて、これが無いと困るんです」
「ふーん……」
悠月さんは指を顎に当てて考え事をした後、杏李さんに言った。
「法術でなんとか出来ないの?」
「無理です。法術では外傷しか治せません」
「ほうじゅつ……?」
聞いたことがない単語だ。
それを当たり前のように日常会話に取り入れている二人を見ていると、やっぱり異世界に来ちゃってるのかなぁと思う。
私が尋ねると、悠月さんはクスクスと笑った。
「ほら、気になるって知りたいって。試しにやってみなよ」
完全に遊んでる。
杏李さんは浅く溜息をつきながら私の両目を手の平で覆った。
すぐに温かいものが両目に流れ込んでくる感覚があった。
五秒程で手が離れて、ゆっくり目を開けてみる。
何も変わっていない。
「どう?」
「ダメですけど……」
「そっか、残念。どうしたら回復するかな……」
悠月さんは唸りながらベッドの縁に座った。
それからは、杏李さんが髪を切る音しかしなかった。
今日も雨が降っている。その音を聞きながら、紺碧がはらはらと床に落ちていくのを鏡越しにぼんやりと眺めていた。
私これからどうなっちゃうんだろう……
どうしたら帰れるんだろう……
考えても、答えの欠片すら掴めない。溜息が出そうになる。
その時、悠月さんのいる方から物音がした。
高い音や重い音がガチャガチャと混じり合い、何かを漁っているようだった。
髪を切ってもらっている以上頭は動かせないので、目だけ動かす。
はっとした。
「悠月さんっ、何してるんですかっ」
視界の端に僅かに移る悠月さんは、見間違いじゃなければ私の鞄を引っかき回していた。
むしろ見間違いであってほしいと思う。
「え?そういえば私物のチェックしてなかったなぁって思って。怪しい物が入ってるかもしれないでしょ」
「そんなもの無いですっ」
やっぱり昨日今日では信用してもらえていないらしい。
ここは異世界なのだから、今までの常識は通用しない。突然無許可で荷物チェックされても仕方ないのかもしれないけれど、男の人に見られたくないような物もあるので、“はい、そうですか”と納得出来なかった。けれど、それを口にする勇気は無い。
悠月さんは、不審な物を見つける為というより興味が先立った様子で『これは何?』と何度も訊いてきた。
携帯や折り畳み傘などを物珍しそうに手にとって眺める姿は、それらがあって当たり前の生活を送っていた私には新鮮で、ちょっぴり可愛くて。中身を漁られているのも気にならなくなってしまう。
そうしているうちに髪のカットが終わった。
長さはほとんど変わっていなかったけれど、随分頭が軽くなったように感じた。
「あ、ありがとうございました」
「仕事ですから」
杏李さんは無表情のまま淡々とそう言うと、片付けを始めた。
私のこと、あまり良く思ってないのかな……
それはそうかもしれない。いきなり、ただの女の子が似てるからってだけで王女様の代わりになるだなんて、歓迎出来るはずがない。
そもそも、どうして身代わりを立てないといけないのかとか、いつまですればいいのかとか、詳しい話を一切聞いていない。
そのうち説明してもらえるのだろうか。
「これ何?変な形だけど」
「え?」
ぼーっとしていたので慌てて振り返ると、悠月さんが人差し指と親指でプラスチックのケースを摘んでいた。
「それはコンタクトレンズです」
ずっと前に由乃ちゃんが『絶対眼鏡より可愛いから!』と言って買ってくれた物だ。
けれど、付けるのは怖いし目は乾くしで、一度使ったきり鞄の中に入れっぱなしになっていた。
まだ使えるのかどうかも分からない。
「へー。こんな小さいもの何に使うの?二つあるよ」
悠月さんは蓋を開けて、透明な液体の中に沈むレンズをいろんな角度から見ていた。
「えぇっと、それは……」
眼鏡と同じく視力を補強する物。そう言ったらどうなるだろうか。
予想では、無理矢理にでも眼鏡からコンタクトに変えさせられる。さっきあんなに視力を回復する方法を考えていたのだから。
「何?怪しい物?」
言葉に詰まる私を見て、悠月さんが顔をしかめた。
ああ、嫌なパターンだ……
説明してもしなくても、きっと悪い方向に転んでしまう。
こうなっては、正直に話すしかない。
案の定、コンタクトの用途を知った悠月さんは不気味に笑んだ。
私の所まで歩いてくると、コンタクトケースを突き出された。
「自分でしてよ。でないと、僕が無理矢理入れちゃうかも。強引にやったら痛そうだなぁ。だって、眼球に直接触るようなものなんでしょ」
脅しのような文句と共に、蓋を閉めたケースを手の上に乗せられる。
手元と悠月さんの顔を交互に見た。
「見逃してくれません……よね?」
「え?僕が無理矢理装着していいの?」
「う……」
この人には逆らえる気がしない。
大人しく鏡の前に移動し、ケースの蓋を開ける。
十分程掛けて、やっと両目に入れることが出来た。
ただでさえ恐怖心があるのに、久しぶりだったので余計に難儀した。
目をぱちぱちしたり、眼球を回してきちんと入ったか確認して鏡の前から離れる。
ずっと横で見ていた悠月さんは、目の前に立つと、いきなり私の顔を両手で挟んだ。無理矢理視線を合わされる。
「あ、あの……っ」
「うん、やっぱりこっちの方がずっと可愛いよ」
動揺する私を余所に、悠月さんは微笑んだ。
いつもの何か企んでいるそれとは違う。
愛おしいものでも見つめるような、とても優しい微笑み。
顔が赤くなっていくのが分かった。
「あ、そうそう。流羽にあげたいものがあったんだ。待ってて、取りに行ってくるから」
私の心境を知ってか知らずか、悠月さんはぱっと手を離し、軽い足取りで部屋を出ていった。
ほっと息を吐く。
こんなことが日常茶飯事だとしたら心臓が保たない。
うるさい心臓を押さえた。
部屋の中が静かになると今度は、ずっと黙っていた杏李さんが口を開いた。
「俺もこれで。失礼します」
お辞儀をしてドアノブに手を掛ける。
やっぱり、その顔に表情は無かった。
「あの、私……やるからには、ちゃんとやりたいって言うか……精一杯王女様になりきれるように頑張ります!だから、その、これからよろしくお願いしますっ」
“世話係”というからには、今後何度も会うことになるはず。だとすると、気まずかったらやりにくい。
勇気を出して、決意表明してみた。
けれど、振り向いた杏李さんの目は冷たかった。
「……あなたに、務まるはずがない」
低い声でそう言うと、杏李さんは部屋から出ていった。
一人、静寂の中で立ち尽くす。
たったの一言だったけれど、的を得ていた。
私に務まるはずがない。それは分かりきっている。
分かった上で頑張ろうとしているのに、そんな水を差すようなこと言わなくたって……
「由乃ちゃん、今頃どこで何してるのかな……」
理解してくれる人がいない心細さから、つい由乃ちゃんのことを思い出してしまっていた。
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