act.1
何も無い。あるのは、闇だけ。途方もなく続く悲しい悲しい闇だ。
そんな中に、私は一人立っていた。
声がする。
『助けて』
と。
誰のものなのか、分からない。
ただひたすら私に呼び掛けて、やがて遠くなった。
胡蝶の夢〜偽りの青〜
「流羽!」
バタンという大きな音と、同じく大きな音によって目が覚める。
数秒後、名前を呼ばれたのが自分だと自覚して飛び起きた。
一気に頭が冴えて、ここは保健室だと認識するのに、そう時間は掛からなかった。
枕元に眼鏡を見つけ、即座に装着する。入り口に息を切らした茶髪の女子生徒が立っているのが分かる。
幼なじみの椿木由乃(つばきよしの)ちゃんだった。
先程の大きな音は、由乃ちゃんが思いっ切りドアを開けた時のものらしい。
「保健室で大きな声を出さないように」
「あ……はい、スミマセン」
保健医に注意され、途端に大人しくなる様子に思わず笑ってしまう。
それに気付いて、由乃ちゃんは真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
「流羽、大丈夫なの?倒れたって聞いたんだけど」
「ちょっと目眩がしただけ。心配掛けてごめんね」
時計を見る。とっくに授業が終わり、放課後になっていた。
事が起きたのは、つい一時間ちょっと前のこと。
体育の授業を受けていた私は突然激しい頭痛と目眩に襲われて意識を失った。
頭痛や目眩は今に始まったことではなく、一月(ひとつき)程前から悩まされていた。
きっと今日は暑かったから、余計にひどかったんだと思う。
「これ、持ってきたよ」
由乃ちゃんが取り出したのは私の制服と、体操着を仕舞う袋だった。
ここでやっと、自分が体操着姿のままだと気付く。
「三年の教室入るの結構勇気要ったよ」
私が三年なのに対し、由乃ちゃんは二年。
性格のせいなのか、一緒にいると由乃ちゃんの方が私より年上に見られることが多かったりする。
「何から何までごめんね……」
「別にいいって。それより、どうせだから一緒に帰ろうよ。あたし待ってるから」
由乃ちゃんは、気弱な私とは全く逆で、明るくて元気だ。
消極的な性格が不幸となり友達と呼べるような人物がいない私にとっては、由乃ちゃんは唯一気の許せる存在だった。
そして、幼い頃から気が強く、男子が相手でも一切怖じ気付くことのない勇敢さが憧れでもあった。
学年が同じだったらどんなに良かっただろう、と何度思ったことか。
急いで制服に着替え、大崎流羽(おおざきるう)と書かれた袋に体操着を適当に突っ込み、保健室を出る。いつもは丁寧に畳むのだけれど、今日は由乃ちゃんを待たせているから仕方がない。
担任に帰る旨を伝え、夕焼けに染まった街を二人で歩く。帰宅部の生徒にとっては遅く、部活をしている生徒にとっては早い中途半端な時間。下校中の生徒はほとんどいなかった。
頭痛はあまり良くなっていない。それどころか、今度は耳鳴りがする。
「一回病院行って看てもらった方がいいんじゃない?」
隣で由乃ちゃんが心配そうな顔をしていた。
安心させようと『大げさだよ』と笑う。
けれど由乃ちゃんの表情は変わらないので、きっと上手く笑えていなかったんだろう。
「だって、変な夢も見るんでしょ?怖いじゃん」
「うーん……怖いって感じじゃない、かな……」
言われた通り、頭痛がするようになってから頻繁に変な夢を見るようになっていた。
幼い私が、少し年上の男の子二人と自然豊かな場所で走り回って遊んでいる夢。
間違いなくそこにいるのは私なのに、二人の男の子は全然知らない子。
夢の中の私が、その様子を見ている“私”に度々話しかけてきて笑う。
いつも同じ場所で、いつも同じ場面。
とても穏やかで、幸せで……けれど、どうしてなのか目が覚めるととても悲しい気持ちになった。
「内容じゃなくて、何かに取り憑かれてるんじゃないかってこと」
「えぇっ、脅かさないでよ、由乃ちゃん」
由乃ちゃんがお化けの真似をして追いかけてきて、小走りで逃げた。
そんな楽しい時間を邪魔するかのように、頭痛が酷くなった。
「痛……っ」
呼吸すら出来ない程の激痛に、うずくまる。
由乃ちゃんが駆け寄ってきてくれたけれど、お礼を言うことも『大丈夫』だと笑うことも出来ない。
『助…て……』
声がする。
誰のものなのか、分からない。
『応…て……ど…か、応えて……』
声は耳鳴りと共に大きくなってくる。
ふと、背中をさすってくれていた由乃ちゃんの手が震えていることに気付く。
「よし、のちゃん……?」
顔を上げる。
目を開けていられなかった。
強い光が、輝きを増して私達に迫ってきていたから。
一瞬で、私達はその光に飲み込まれた。
第一章「水都〜蒼〜」
雨の匂いがする。
心地よいリズムを刻む水の音……
目を閉じたまま、しばらく耳を傾ける。まだ目覚ましが鳴っていないということは、きっと時間には余裕があるはずだから。
とても、静かな朝だ。
時計の秒針も、車が走る音も聞こえない。
違和感があって目を開けた。
一つは、不自然なくらい静かなこと。二つ目は、私が寝ていたということ。
睡眠を取るのは人間として極普通のことで、何もおかしくはないはずなのだけれど……
そうだ、“眠った”という記憶が無い。だから違和感があるんだ。
だったら、何故寝ていたのか。
思い出してみる。
保健室で目を覚まして、由乃ちゃんと下校して、頭痛がして……
強い光が迫ってきたところで、私の記憶は終わっている。
きっとあの光はトラックのヘッドライトで、私は轢かれたんだろう。
だから、ここは病院だ。
その証拠に、視界に映る天井に見覚えが無い。
けれど不思議だ。
体を動かしてみても、どこも痛みを感じない。
なんだか気味が悪くて起き上がった。
いつものように眼鏡を手探りで掴んで掛ける。
「あ、起きた?」
知らない声がして振り向く。
病院の先生かな、という予想は大きく外れた。
「えっと……どちら様ですか?」
金の髪と瞳をした男性がソファに座っている。
女の子と間違えてしまいそうな顔立ち。漫画やゲームに出てきそうな、水色のローブに淡い紫のストールを首に巻いている。
あまり見慣れない服装なので、思わず首を傾げてしまった。
仮装大会でもしているのだろうか。
「そんなことより、お前、どこから来たの?」
可愛い顔に綺麗な微笑みを浮かべているのに、どことなく棘のある言い方だ。
どこから来たかなんて普段ほとんど訊かれないから困ってしまう。
この人は仮装した医者、もしくはここは変な病院で、私の頭が大丈夫か確認しているとか?
それなら、覚えてることを洗いざらい話した方がいいかもしれない。
「友達と学校から帰ってて、途中で頭がものすごく痛くなって、光が迫ってきて……目が覚めたらここにいました」
「ちょっと待った。……バカにしてるの?僕のこと」
さっきよりも爽やかに、先生(多分)は笑う。笑っているのに、背筋がぞっとした。
私、何かおかしいことを言っただろうか。事実を話したつもりなのだけれど。
「お前のことは橙真(とうま)……僕の双子の兄が海岸で拾ってきたんだよ」
“拾ってきた”だなんて、物みたいな言い方されて少し傷つく。
そして、この人の言うことには、不可解な点があった。
私が住んでいるところには、近くに海なんて無い。だから海で助けられるはずもない。
まさか、私を轢いたトラックの運転手が海まで運んで死体遺棄未遂を……
そんな恐ろしい事件に発展していたなんて恐ろしい。
「あの……ここは何市ですか?それとも県外なのかな……私どこも痛くないから動けそうですし、帰りたいんですけど……あの、親に連絡とかは……」
由乃ちゃんの安否も気になるし、この人もなんだか変なので早くこの場所から立ち去りたい。
電車かバスに乗るくらいのお金はあるはず。
急いでベッドから降り、脇に学生鞄が置いてあったので財布と携帯を取り出す。
財布にお札が数枚入っているのを確認すると、折り畳み式の携帯を開いた。
液晶の隅に、圏外の二文字。
嫌な予感がした。
「ナニシなんてとこ知らないけど。ここは、“蒼(そう)”だよ」
「蒼市……?」
聞いたことがない場所だった。
「“蒼”、だってば。……なんか話が噛み合ってないね」
盛大に溜息をついて、先生(多分違う)は立ち上がった。
ドアまで歩いて行き、僅かに外に顔を出す。
「橙真呼んできてよ」
誰かに声を掛けているようだった。
自分がどこにいるか分からない不安で足が竦み、私は動けないでいた。
本当は強引にでも逃げ出したい気持ちもあったけれど、そんな勇気は持ち合わせていない。
「ま、とりあえず座ったら?」
“先生じゃない人”に促され、ソファに腰掛ける。何かあった時の為に鞄を抱えて。
「近くで見ると……確かに似てるような、似てないような……」
ぶつぶつ言いながら、真っ直ぐ私を見つめてくる。おまけに、徐々に顔も近づいてくる。
怪しい人なのに、顔が整っているせいでドキドキしてしまった。
「あ、あの……っ」
「何?」
近いです。そう言おうとした時、ドアが開いた。
オレンジの髪と瞳の男性が入ってきて、私達を見る。
この金髪の人とは違い、男らしい人だった。やっぱり変な服装をしていたけれど。
「呼んだか、悠月(ゆうき)」
「うん、呼んだよ」
金髪の方の人は悠月さんというらしい。
オレンジの人は私の顔を見るなり、『目が覚めたのだな』と微笑んだ。
悠月さんのそれとは違って、優しい微笑みだった。
「起きたのはいいけど、全然何言ってるか分かんないんだよ。橙真に託そうと思って」
「なんでも人任せにするのは良くないぞ」
その人が橙真と呼ばれたのを聞いて、驚いた。
先程の悠月さんの話からしたら、この二人は双子だったはず。とてもじゃないけれど、顔も声も雰囲気も似ていない。
ただ、橙真さんが兄ということは、なんとなく納得出来た。言ってしまえば、橙真さんの方が大人っぽいというか、落ち着きがある。
橙真さんと悠月さんが向かい側に座ると、自然に体が強ばった。
「そうだな……まずは、名を聞こう」
「大崎流羽、です」
「俺は菅波橙真。こっちが、弟の悠月だ」
なんなんだろう。尋問でもされるのだろうか。
「お前は昨晩、すぐそこの海岸沿いに倒れていたんだが……単刀直入に訊こう。どこから来たんだ?“冥(めい)”か?“煌(こう)”か?」
「えと……すみません、何を言ってるのか全然分からないです……」
さっきと同じく、知らない場所ばかり。
蒼だとか冥だとか煌だとか、もしかしてここは中国なのだろうか?
でも言葉は通じている。
私、ちゃんと日本語話してる、よね……
段々自分も信じられなくなってきた。
「ここまで無知ってことは、異世界から来てたりしてね」
悠月さんがからかうように笑う。
とても笑えない冗談だった。
そんなことがあるはずない。
けれど、知らない地名にコスプレのような服装……おかしなことばかりで、本当にそうなんじゃないかと思えてくる。
いっそ、笑っておこう。
「あは、あははは……そんなこと、あるはずないじゃないですか……」
「そうだよねぇ。じゃ、無知を装っているスパイだね。死刑。決定」
「えっ」
「悠月……」
いきなりの宣告に、橙真さんが溜息をついた。
何も悪いことをしていないのに、よく分からない場所でよく分からない人に殺されるなんて、そんな人生嫌だ。
それとも、もう私は死んでいて、ここは天国なのかもしれない。
そうだったら、この謎だらけの状況も納得がいく。
お決まりなので、頬をつねってみた。痛かった……
橙真さんにじっと見られていて、恥ずかしくなり俯く。
「……だが、その奇妙な格好や容姿からして、悠月の言うことも頷ける……のかもしれない」
「えっ、私死刑にされちゃうんですか?」
「いや、その前に言ったことの方にだ」
橙真さんが苦笑する。
とりあえずは安心した。
けれど、安心している場合ではない。
悠月さんよりは良識のある人だと思っていた橙真さんが、異世界がどうこうとおかしなことを言い出したのだから。
「そんなこと有り得ないです。そんな、お伽噺みたいなこと……」
「なら、スパイって認めなよ」
「ち、違いますっ」
どうやら悠月さんの頭には、“スパイ”と“異世界から来た者”の二択しか無いらしい。
「俺には流羽が嘘をついているようには見えないが……とりあえず、お前のことをいろいろと聞かせてくれないか?スパイでないなら出来るだろう?」
「出来ると思います」
それから、橙真さんに私自身の話をした。
住んでる場所、通ってる学校、好きな食べ物、特技など……そして、ここで目覚める直前の出来事。時折二人からの質問に答えながら。
二人があまりに真剣に耳を傾けていて緊張したので、途中から『これは面接の練習なんだ』と思うことにした。
最後に持っていた学生証や生徒手帳を見せたけれど、二人共揃って知らない文字で読めないと言った。
「にわかには信じがたいが、やはり、流羽は異世界から来たという線が濃厚じゃないだろうか。何よりその髪色が決定的だ」
「髪……?」
自分の髪に触れる。生まれ付き紺碧で、半年前に床屋さんで切ってもらったきりの厚ぼったい髪に。
勉強の邪魔なので、百円均一で買ったゴムで適当に纏めてある。
この髪色がなんだと言うのだろうか。家族みんな同じような色をしているから、私にとっては珍しくもなんともないし、他人から指摘されたことも無いのだけれど。
「そのような深い青は、とある人物以外存在しない色だ。世界中どこを探しても、だ。“彼女”の親でさえ、全く異なっているからな」
「はあ……そうなんですか」
いきなりそんな超レアだと言われても、実感が湧かない。
けれど、私がどういうわけか異世界に来てしまったということは、もう認めなければいけないのかもしれない。
否定したって、今度はここ“蒼”がどこなのかという疑問にぶち当たり、それを解決する方法は無いに等しいのだから。
二人が私を騙しているということもあるかもしれないけれど、そこを疑い始めたらキリがない。
とりあえず、異世界に来た、という体で話を進めていくことにした。
「そういえば流羽の話を聞く限り、その光に包まれた時にもう一人いたみたいだけど、他に誰もいなかったよね」
「え?」
「ああ。俺が見つけた時はお前一人だった」
血の気が引いていく。
それは、由乃ちゃんが見つかっていないということ……?
その言葉の意味するところは何か。
誰かに連れ去られたのか。私が発見される前に目覚めて、どこかへ行ってしまったのか。私だけがこの世界へ来たのか。
それとも、もう……
最悪の事態が頭を過ぎり、体が震えた。
ただでさえパニック状態に陥っているのに、それ以上の混乱が襲ってくる。どうしたらいいか分からなくて堅く目を瞑った。
「探してあげようか?流羽の友達」
「!」
目を開ける。悠月さんが微笑んでいた。
私は初めて、この人が天使……否、神様に見えた。
「本当ですかっ」
「うん。手を尽くして、国中をくまなく。僕と橙真はこの国の王だからね。そのくらい容易いよ」
悠月さんと橙真さんが、国王……
目が覚めたら突然異界の王様に拾われるだなんて、幸なのだろうか。それとも不幸なのだろうか。
その権力を持ってして由乃ちゃんを捜索してくれるのだから、きっと幸運なんだ。
けれど、そんな希望は一瞬で消えた。
「その代わり、女王の代わりをして」
「……え!?」
「正気か、悠月。大体、それでは脅しと変わらないぞ」
橙真さんが怒気を含んだ声で言うと、悠月さんは真面目な顔付きになった。
どこか寒気のする微笑みばかり見ていたので、一瞬『こういう表情も出来るんだ』と思ってしまう。
「いい加減、体調不良で隠していくのは無理だよ。もう一ヶ月経ってるんだから……それに、これは正当な取引だよ。お互いに有益でしょ?」
悠月さんは真面目な顔のまま私を見た。
「どうする?やる?」
突然異世界に来たと言われ、事情も何も分からないのに、よりによって女王様の代わりなんて引き受けられるはずがない。
私に、そんな風に人の上に立つ素質が無いことは自分でも分かっている。
けれど、由乃ちゃんの命には替えられない。
膝の上でぎゅっと手を握る。
「……やり、ます」
「取引成立だね」
これが、非現実な日々の始まりだった。
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