act.3
こちらの世界に来て数ヶ月と経っただろうか。
ほとんど毎日雨が降っていてじめじめした日が続いたけれど、今日は太陽が眩しい。
雨の間ずっと室内に閉じこもっていた私も、久しぶりに中庭へ足を運ぶことにした。
擦れ違うメイドさん達に軽く会釈しながらそこへ辿り着くと思わぬ先客がいて、とっさに『あ』と声を上げてしまう。
「流羽か」
先客──橙真は、私に気付くと柔らかく微笑んだ。
「橙真も久しぶりに日に当たりに来たの?」
と、訊ねてから、橙真の手元に一冊の本があることに気付く。
隣まで歩を進めるとそれは随分と頑丈に施錠されているのがわかった。
ぐるぐると錆かけの鎖が巻かれ、ただの本ではなさそうだ。
「お前が元の世界に帰れるよう暇を見て資料室を調べていたんだが……」
そうだ。まだこの世界に来たばかりの頃にそんな約束をした。
いろんなことがあって私ですら頭の片隅にある程度だったのに、ちゃんと叶えようとしてくれていたなんて。
ほんとに橙真は親切だ。
「今まで異世界についての文献は無かった。これが最後の頼みの綱になる、が……まあ、立ち話もなんだ。座るか?」
「うん、ありがとう。でもいいの?私がいて。なんだか重大そうな本だけど……」
「そうだな……いいか悪いかで言えば良くはないだろうが。誰か……いや、お前に横にいてほしい」
ただならぬ雰囲気を醸し出す本の表紙を撫でる橙真は、やけに歯切れが悪く、少し弱気になっているようにすら感じた。
いつも凛としていて頼もしい橙真が、だ。
「なんの本なの?」
なんだか私までビビってしまって、腰を下ろしながら唾を飲む。
「……四代目の日向の日記のようだ」
「日記……」
にしては、ちょっと厳重すぎる気もするけれど。
これだけしっかりと錠が掛けられているということは、余程隠したい何かがあったのだろうか?
それとも、ただ単にものすごく照れ屋さんだったのだろうか。
橙真がゆっくりと、物々しい日記帳を撫でる。
すると不思議なことに、頑丈そうな鎖がキーホルダーのチェーンかのように簡単に解けた。
「やはり、鍵は“日向の魔力”だったか」
「日向にしか開けられないってこと?」
「そうだ。もしかすると、当人以外の“日向”に遺した、という可能性もある」
それはすなわち、橙真には中身を見る権利があるということになる。
何も悪いことではないし、これを書いたらしき四代目日向さんは、もしかしたら後の日向に読んでほしかったかもしれない。後ろめたく思う必要もない。
なのに、橙真は日記の表紙に手を掛けたまま、じっと動かなかった。
「橙真……?もしかして、ほんとは読みたくないけど私の為に無理してる?」
「いや、そうではない。もっとも、書物を探すと約束を交わさなければ“これ”に辿り着くことはなかったが……手に取ったのは間違いなく俺の中に好奇心があったからだ。だが、情けないことに、今になって臆病になっているようだ」
そう言って苦笑する橙真は、いつもより一回り小さく見えた。
普段、誰よりも優しくしてくれて頼りになる橙真が、今日は弱気で、私に隣にいてほしいと言った。頼ってくれた。
こんな時どうしたらいいかわからないけれど、少しでも日頃の恩を返したい。
「私、何もできないけど……ここにいるからね。橙真のタイミングで開けていいからね」
聞くだけしかできないなんて、なんと無力なことか。
「すまない、気を使わせて。理由はわからないが、何か嫌な予感がするんだが……このような事で怖じ気付いていては男らしくないな」
私の頭にポンと軽く手を載せて、遂に橙真はゆっくりと表紙を開いた。
最初のページを見て、私は一瞬呼吸が止まりそうになった。
古くなって色褪せた紙には何も書かれていなくて、けれど赤黒い血痕がそこにあったからだ。
橙真は特にリアクションすることなく、ページをめくる。
次のページからは何かが書いてあった。
けれど、何が書いてあるかはわからない。
漢字でも英語でもハングル文字でも無い、記号みたいな字が並んでいる。
橙真の表情を覗き見ると、案の定険しい顔をしていた。
「橙真、大丈夫?ごめんね、私こっちの世界の文字読めなくて……」
「そうだったな。お前がこちらへ来た時に見た紙のようなものに書かれた文字も、俺達には読めなかったからおあいこだな」
あれは確か、初めて橙真や悠月と出会った時。
学生証を見せて苦い顔をされたのだった。
橙真は、文字列を人差し指でなぞりながら、ゆっくりと声に出して読んでくれた。
『……まず、真っ先に記したい。私は、月華を、兄を、心から愛している。
ただ一人苦楽を共に生きてきた兄弟だからだ。
こうして、月華と日向として生まれた運命を呪うこともしない。』
日記にしては不思議な始まりだと思った。
それから、この代では月華が兄で日向が弟だったことを理解する。
『兄が波光を慕っていることは以前から知っていた。故に、日向である私を嫌っていることも。
私は身を引くことに躊躇はない。幼い頃から頭に叩き込まれていた“波光は日向と月華に平等でなければならない”という伝承もどうとは思わない。
だが、日向としての本能がそうさせてくれない。
兄を疎ましく感じる瞬間が必ずあるのだ。それが私にはとてもつらい』
「伝承?」
「ああ、俺達も、“日向が波光と結ばれてから昼と夜の均衡が崩れた。この世の理をねじ曲げない為に波光は日向と月華両者に平等であれ”と散々言われてきた。それが事実かは定かではないが、当時から伝承は存在していたのだな」
「そんな……」
それは、波光が日向か月華のどちらかを好きになっても思いを遂げてはならない、ということになる。
その逆も然りで、日向は月華の為に、月華は日向の為に恋を諦めなければならないということ。
とても平和そうに見えて窮屈な言い伝えだ。
橙真が次のページをめくる。
そこは比較的綺麗な状態だった。
『私は気付いてしまった。兄が私に……』
そこで、言葉が途切れた。
どうかしたのかと顔を見上げると、橙真は口元を手で覆っていた。
そのまま額を押さえ、ため息を吐く。
「すまない。少し動揺してしまった」
「大丈夫?無理しないで」
珍しく弱々しい姿に、背中をさする。
橙真は私の方を見ると力なく微笑んだ。
「『月華である兄から毒を盛られているようだ』と書かれている。そしてそれに気付いていながら、『受け入れる』と……」
『殺されると知っていて尚、兄を愛したいと思う私は狂っているのだろうか?否、それでもいい。兄を憎しみながら死を待つよりは、ずっといい。』
そう綴られた言葉に、私は涙がこみ上げてくるのを感じた。
その先も、自分が死ぬことの苦しみより、兄への慈愛が書き綴られていた。
一見穏やかな日常が十ページ足らず続いたところで、再び血痕の付着したページが現れた。
橙真はというと、先程の動揺は一切見せず、吹っ切れたかのように淡々と読み進めている。それが逆に、私には心配だった。
『最近兄の機嫌がいい。私が弱っていることに気付いているようだ。
初めて紅茶を入れてくれたり、十年振りに共に入浴もした。
私自身、死が近いことを感じている。
何も知らない波光には不安にさせて申し訳ないが、ここ数日はまるで子供の頃に戻ったような、幸せな時間だった。
この日記を読んでいるいつかの日向へ。
あなたは月華と良好な関係を築けているだろうか?
私は、月華ではなく日向に生まれて良かった。彼と違い、不安定な情緒に振り回されることもない。
この期に及んで頭のおかしい奴だと思うかもしれないが、殺す側でなく殺される側で良かったと心から思っている。』
次のページからは、何も書かれていなかった。
「橙真……」
どう声を掛けていいかわからず、広い背中をさする。
この手記の主のことは全く知らないけれど、お兄さんのことをとても大切に思っていたことは痛い程伝わってきた。
そして橙真も、日向という立場、兄弟が月華であるという共通点から、いろいろと思うことがあるのではないだろうか。
しばらく辺りには、風が草木を揺らす音だけが鳴っていた。
「すまない、そんな顔をさせるつもりではなかったんだが」
「ううん、こっちこそごめんね。私が元の世界に帰る方法を探す手伝いを頼まなければ、こんな悲しい本に辿り着くこともなかったのに……」
閉じられた日記を見る。
幻想的な見てくれのそれは、表紙だけではあんな壮絶な中身を想像することはできない。
“読まなければ良かった”とまでは行かなくても、読んだことによって気持ちが沈んでしまったのは確かで、きっと橙真も、少なくともいい気分にはならなかったはずだ。
私がしょげていると、また大きな手がぽんと頭の上に優しく載せられる。
顔を上げると、橙真は優しく微笑んでいた。
「そんなことはない。歴史を知ることは大切だ。俺は、この手記を見られて良かったと思う。日向と月華の間に確執が生まれる場合は多いと聞いていたが、このように大切に想っていた代もあったのだな」
「橙真も、だよね?」
「そうだな。悠月は融通の利かない所もあるが、こうして共に暮らせることは幸せだ」
それを聞いてホッとした。
橙真にも悠月にも、やっぱり仲良くしてほしいから。……なんて、当事者じゃない私が言うのは偽善で押し付けがましいだろうか。
「だが……俺達は所詮三大精霊の器に過ぎない。いつか自我を保てなくなる時が来るかもしれない。特に悠月は……この日記の最後にあったように、月華は情緒が不安定になりやすいと聞いている。その感情が自分の物なのか、自分の体に宿る精霊の物なのか、わからなくなる時もある。そして、芽琉はそれを嫌がっていた」
「芽琉さんが……?」
いつだったか橙真が、“芽琉さんには行方を眩ます動機がある”といった趣旨の話をしていたことが頭をよぎった。
そう言われると、もしかしたら私がこうやって橙真や悠月、杏李に親しみを感じるのも、私自身の感情ではなくて“波光”に近づいているからなのではないか。
そんなこと……
「やだよ……」
ふと、思っていたことが口を出てしまった。
橙真がきょとんとして私を見るので、そのまま話してしまうことにした。
「私が橙真とこうして一緒にいてホッとするのは橙真が優しいからで、橙真の優しさとか、この日記を読んで心を痛める気持ちは橙真の物だよ。日向だからとか、そんな事関係ない。そうじゃなきゃ……嫌だよ」
なんだか悲しくなって、尻すぼみになる。
泣きそうになるのを堪えていると、グッと強い力で引き寄せられた。
私よりもずっと大きな腕で体を囲われる。否、抱き締められていることに気付くまで、数秒掛かった。
突然の事に驚いて、涙なんて吹き飛んだ。
「お前がそんな顔をする必要はないというのに……可笑しな奴だな」
「橙真……」
「ありがとう、流羽」
その声色がいつもより弱々しくて、私はそっと橙真の背中に腕を回し、しばらくそのままでいた。
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