act.2
雨音を聞きながら廊下を歩く。ふと足を止めて空を仰げば、真っ黒な雲が視界を埋める。
この世界に来てからというもの、庭へ出る以外に息抜きする方法が見当たらない。
なので今日のように雨の日は気分が落ち込んでしまう。
テレビだとか本だとか、ゲームだとか、室内で出来る娯楽って偉大だったんだなぁと、改めて実感した。
あまりに暇で宮殿内を散策したはいいけれど、擦れ違うメイドさんや執事さんが一人も余すことなく私に会釈してくるのでどうにも落ち着かない。
芽琉さんならどうするだろう、と考えてみても、そもそも知らない人なのだから分かる筈がない。
……もう戻ろう。
部屋に向けて歩き出した、その時。
「波光の宮っ」
「──!」
語尾に音符が付くくらい軽快な口調で呼ばれたかと思うと、背後から誰かが覆い被さってきた。
それが誰なのかはすぐに分かった。
「悠月、びっくりしたよ」
「びっくりさせたんだから、当たり前だよ。元気にしてる?」
「うん。相変わらず」
抱き締められたまま、よしよしと頭を撫でられる。
まるで久々に会ったかのような会話だけれど、ついさっき顔を合わせたばかりだ。ほんの3時間程前に。
「そっかそっか。僕も元気」
むしろ、この調子で具合が悪いと言われたら耳を疑う。
悠月は最近、私を『小動物みたい』だと言う。『可愛いから抱き締めたくなるんだよ』とも。
最初は、からかわれているのか本気なのか全く見当も付かなかったし、見境なく抱きつかれて恥ずかしかったり戸惑ったりしたけれど、それ以上のことを要求されるわけでもないので慣れてしまった。
それに“可愛い”だなんて誉め言葉滅多に貰えないから、多少は嬉しかったりもする。
何より、嬉しそうにする悠月こそが可愛かった。
「悠月はどこかに行くところ?」
「逆だよ。部屋に戻るついでに橙真に会いに行くところ」
「じゃあ一緒に行く?」
「もちろん」
そっと離れる悠月と並んで長い廊下を歩く。
こうして宮殿の中なら好きなように出歩けるくらいには心に余裕を持てるようになったということは、少しは進歩しているのだろうか。歩き方とか、立ち振る舞いとか。
「ねえ、私って──」
それを尋ねようとした時。
─ガシャンッ
何かが割れるような大きな音がして、私達は反射的に足を止めた。
音のした後方を見てみる。
青い顔をしたメイドさんと、その足下に散らばるガラスの破片。
どうやら、陶器を割ってしまったようだった。
立ち尽くすメイドさんは、小柄で見たところ私とそう歳が変わらない。何度か顔を合わせたことのある人だった。
「うわぁ、派手にやらかしたね。あれは相当叱られるだろうなぁ」
悠月が悠長に呟いた。
彼の言う通り、小柄なメイドさんは年上らしきメイドさんにこっぴどく叱られていた。
少し距離のある私にも声が聞こえてくるくらいに。
ずっと頭を垂れている姿が痛々しい。
私は、自然とそちらに足を進めていた。
「波光の宮様……!申し訳ございません!この者が……」
怒鳴り散らしていたメイドさんが、私の姿を確認するなり顔を真っ青にしてまくし立てる。
それを聞き流して、私はその場にしゃがみこんだ。
「ちょっと、波光の宮!何してるんだよ!」
何をしようとしているのか理解したのか、悠月が血相変えて駆け寄ってくる。
「大丈夫だよ、このくらい。少しだけ」
割れたのは花瓶らしい。濡れた絨毯の上に色とりどりの花が散らばっていた。
とりあえず、その花を拾っていく。
このくらいのこと、学校で何度もしていたから慣れている。
それを口にしたら正体がバレるので黙っておくのだけれど。
「あの、怪我してませんか?」
慌てて一緒に片付けを始めたメイドさんに尋ねると、泣きそうな顔をしながら大きく頷いた。
「本当にっ、申し訳ございません!手伝って頂いた上に私の身まで案じてくださるなんて、もうなんとお礼を申し上げたらいいのかっ!」
「あはは……」
大げさだなぁだなんて思いながら、片付けを再開すると、大きめの溜息が降ってきた。
悠月が同じように横にしゃがみこむ。
「怪我したら大変だから、ガラスには触らないでよ」
「あ……うん。わかった」
不満そうな顔をしながらも、大きめの破片を拾っていってくれる。
そうしてほんの数分手伝ったところで、悠月は誰かが持ってきたゴミ入れに破片を入れて立ち上がった。
「はい。おしまい。行くよ」
「え、えっちょっと待って……っ」
腕を引かれ、よろめきながら立ち上がる。
「本当に、すみませんでした………っ」
小柄なメイドさんがまた深々と頭を下げると、悠月は『次から気を付けて』とだけ吐き捨て、私の腕を掴んだまま部屋のある方へ歩き出した。
引きずられるようにして私も後に続く。
その間終始無言で、すれ違うメイドさん達の顔には『何事だろう』と書いてあるようだった。
見張り付きの階段を顔パスで通り越し当初の目的地だった部屋の前まで来ると、やっと私は解放された。
「流羽……」
悠月がこめかみを押さえて振り返る。
「あまり使用人と関わらないで。最近、波光の宮様変わったねって噂してる連中がチラホラいるから」
「ご、ごめん。つい……」
困っている人を助けたのだから、悪いことはしていないはずだ。
けれど、私がそれをすることで困る人もいる。
……難しい。
「でも、僕は流羽のそういう優しいとこが好きだけどね」
まるで動物や子供に話し掛けるような、今の真面目な空気を吹き飛ばすくらい明るい声で悠月が言う。
そして、やはり動物や子供にするように、よしよしと頭を撫でられる。
前ほど動揺しなくなったとはいえ、くすぐったい気持ちになって悠月から視線を逸らした。
「ね、ねえ、悠月!芽琉さんって、どんな人なの?」
「え?」
「ほら、私まだ芽琉さんのこと全然知らないっていうか……どんな人なのか分かってた方が、似せることもできるのかなって……」
「あれ、知らなかったんだ。ごめんごめん」
よしよし、とまた頭を撫でられる。
ここまで来るとからかわれている気がしてくる。
「もっとクールでしっかりしてる流羽って感じだよ」
満面の笑みで、心を抉られた気がした。つまり私はしっかりしていないと。
そして、
「僕は今の流羽で十分好きだけど、もう少し頑張ってね」
満面の笑みでプレッシャーを掛けられた。
しかも、ざっくりしすぎていて結局芽琉さんの人物像が浮かんでこない。
「えと……例えばどんな風に?」
「そうだなぁ……例えばさっきの状況、僕と歩いてる時に後ろから何かが割れる音がした。振り返ったら使用人が花瓶を落として割っていた。だよね?」
「うん、確かそうだった」
「あの時一緒にいたのが芽琉だったら……」
悠月は人差し指を顎に当てて、宙を仰いで想像しているようだった。
「振り返って事を目視して終わり、かな」
薄々そんな気はしていた。
やっぱりあるのかな。女王と国民の距離感みたいなものが……
もし橙真だったら、手伝いこそしないものの『気をつけろ』って身体を案じたりしてくれるのかな。
もし杏李だったら……悠月の言う芽琉さんの行動と同じ反応をするかもしれない。『あれが彼女達の仕事ですから』って、放っておきそう。
それなら、杏李の言動をよく見ていたら、芽琉さんに近付ける何かが掴めるのかもしれない。
“芽琉さんに近付ける”……
どうしてだろう。なんだか胸が痛む。
「あ、でも」
私の心とは反対の明るい声に、知らず知らずのうちに俯き加減だった顔を上げる。
「芽琉はこんな風に僕とおしゃべりしてくれないから、流羽にはこのままでいてほしいなぁ。でもそうすると、国民にバレるのも時間の問題だろうし、うーん、難しい」
そう言って悠月は笑った。どこか寂しそうに。
「ゆう──」
気になって名を呼ぼうとしたけれど、瞬きをする間のほんの一瞬で、その表情はいつもの笑顔に変わっていた。
「うん、困るね。困る困る。やっぱり流羽にはちゃんと役目を全うしてもらわないと」
「う、うん……」
「さてと、早く橙真のとこに行って特訓しないとねー。“波光の宮様”?」
「う……頑張ります……」
有無を言わさない、腹黒ささえ漂わせる笑顔。
私はそれにホッとしたような不安なような、ぐしゃぐしゃの感情を抱きながら、再び歩き始める悠月の後についていくのだった。
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