act.1
太陽は海を愛し、月もまた、海を愛した。
全てを包み込むような、大らかな心。聞いた者を魅了する、癒しの声。
太陽と月、両者とも、同じ時間を過ごすにつれて海に惹かれていった。
やがて、海を我が物にしようとする太陽と月との争いが始まった。
海を奪い合う太陽と月を見かねた神は、二人が公平に海と逢えるよう、昼と夜を分けた。
太陽に惹かれた海は彼が現れる時、去る時に頬を真っ赤に染めた。
それを知った月は悔しがり、海の目を引く為に空へ煌めく星を蒔いた。海はあまりの美しさに、瞳を輝かせた。
けれど海は二人の内どちらかを選べず、今でも昼夜は平等に訪れるのだという。
第二章「鳥兎〜日向と月華〜」
気持ちのいい晴天。
枝葉の揺れる音を聞きながら、私は橙真と木陰に座っていた。
傍らには、こんな平和な空間に相応しくない真剣が置いてある。
こちらの世界に来てから、約二ヶ月。
もう何度目になるか分からない橙真先生の剣術教室を今日も行っている。
私が代わりをしている人、芽琉さんは、剣の扱いが上手だったようで、私がど素人だということがメイドさん達にバレないよう人目を避けて中庭で稽古をつけてもらっている。
そして、休憩中はこちらの世界について学ぶようにしていた。
今も、橙真と一つの本を眺めている。私は文字が読めないので見ていても意味が分からないし、全部読み聞かせてもらっているのだけど。
「これは、他国へ偵察に行っていた者の報告書を纏めたもののようだな。まだ紙が新しい。……先代の使者か」
一番最後のページを見て、また最初のページへ戻す。
「“他国”ってことは──」
「日向の宮様」
『蒼以外にも国があるの?』と尋ねようとしたところを遮られた。
宮殿へ続くドアが重い音を立てて開き、杏李が出てくる。
「月華の宮様がお呼びです」
「そうか」
橙真は本を閉じ、立ち上がった。
橙真が“日向の宮様”、悠月が“月華の宮様”、そして芽琉さんが“波光の宮様”。
これらは一般の人々が三人の王を敬う呼び方なのだと思っていたけれど、ただの呼称ではないことを私は知ってしまった。
この世界には魔法がある。そしてそれは、万物に宿る精霊のおかげで使うことが出来るらしい。
中でも、月と太陽、そして海には、この世界の根元(こんげん)とされている精霊が存在している。その三大精霊が“器”としているのが、日向であり月華であり、波光。
三大精霊はまだ完全ではなく、成長する為には人間の魔力が必要であり、高い魔力を持つ者の体に寄生している。
つまり、日向である橙真には太陽の精霊が、月華である悠月には月の精霊が、波光である芽琉さんには海の精霊が、それぞれ宿っているということ。
私の髪色が珍しいと言っていたのは、この紺碧が“海の精霊、すなわち波光を宿す証”だからだそうだ。
橙真も悠月も、芽琉さんも、両親は杏李のような水色の髪をしているらしい。
メイドさん達に“波光の宮様”と呼ばれることにも慣れたけれど、この話を聞いてからは時々思う。
みんな私のことを“波光を宿す芽琉さん”として見ているのか。それとも、“人の体を借りた波光”として見ているのか。
……どちらにせよ、この世界に“大崎流羽”は存在しないんだ。
「流羽?」
橙真の声がして、はっと我に返る。
「ご、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「大丈夫か?今日も暑いからな。切り上げても構わないぞ」
「ううん、大丈夫」
「それならいいが……無理だけはしないようにな。杏李、後は頼んだぞ」
「御意に」
杏李が頭を下げると橙真は頷いて、宮殿の中へ入っていった。
「頼んだって、何を?」
「あなたの剣の稽古ですよ」
「あ、そうなんだ」
そんな話になっていたなんて。私は余程長い時間呆けていたらしい。
立ち上がり、お尻を払う。
「正直な心境を口にしてもいいですか」
「うん」
「どうして俺がこんなことを」
杏李は溜息をつきながら、橙真が使っていた剣を拾い上げた。
思わず苦笑してしまう。
「杏李って剣も使えるんだね。魔法が使えるから、てっきりそっちはダメな人なのかと」
「……それは喧嘩を売っていると捉えて宜しいんですね?」
「ちっ違うよっ。うぅ……誉めたつもりなのに……」
「冗談ですよ」
あ。笑った。
時々ではあるけれど、杏李は笑ってくれるようになった。
私に向けられる視線も、前よりは冷たくない。……と思う。
少しは仲良くなれているのかな、と嬉しくなる。
「少なくともあなたを叩きのめすくらいの力量はありますよ」
「出来れば叩きのめさないでほしいな……」
自分の剣を拾い、構える。応えるように杏李も構えた。
「いくよっ」
「どうぞ」
金属音が響く。
こちらの攻撃は全て受け流され、お返しと言わんばかりに杏李が攻めてくる。なんとか軌道を見極めるくらいは出来るようになってきたものの、ただ守りに徹するばかりだった。
ぴたりと、首に切っ先が突きつけられた。
この剣は練習用で刃が無い模造刀で、切れたりはしないけれど、やはりそれなりに悔しい。
杏李が剣を降ろしたところで、はあっと息を吐く。
「あんまり聞きたくないんだけど、私って剣習い始めてから上達してるのかな……」
「さあ。まあ、正直に言わせてもらうと、ど下手です」
「……やっぱり。苦手なんだよね、運動系は昔から……」
リレーがあれば同じチームの子に迷惑がられ、ドッジボールでは最初に狙われ、サッカーやバスケの時はパスを回してもらえず……体育の時間にいい思い出は全く無い。そんな私に、剣で魔物を倒せだなんて、無謀すぎる。ダメ元ではあったけど。
「具体的に、どこが悪い?」
「反応が鈍い。構え方がなってない。そもそも筋力が無い。……まだ聞きますか?」
「……もういいです。杏李の意地悪」
「心外ですね。ご自分から尋ねてきたのに」
Sなのだろうか、この人。
『体力作りもしなきゃなぁ』と思いながら、早くもくたびれてしまった体を休める。
先程いた木陰に座り、足を投げ出した。
「何か飲み物でもお持ちしましょうか?」
「大丈夫。ありがとう」
手で風を起こしながら、息一つ乱れていない杏李を見上げる。色素の薄い髪は日の光を受けてキラキラ輝いているように見えた。
自分の髪に触れてみる。
私の髪はこちらの世界では特別視されているようだけれど、これといって手入れもしてないこの髪より、杏李の水色でキラキラな髪の方が私は綺麗だと思うし羨ましいんだけどな……
「髪がどうかしましたか」
「え!?な、なんで?」
「俺の頭をじっと見て、ご自身の髪をいじってるので。分かりやすいにも程がありますよ」
「う……」
本人に気付かれるくらいにずっと見ていたのだと思うと恥ずかしくて、すかさず視線を外した。
「杏李は知ってるの?その……三大精霊って呼ばれてる精霊のこと」
「当たり前です。少なくとも、この国にいる人間は誰でも知ってますよ」
「そうなんだ……私の世界には精霊なんていなかったから、なんだか話を聞いてもぴんとこなくって」
「精霊がいない世界の方が俺には理解出来ませんね」
私にとって“精霊”なんて夢物語でしかなくて、でもこの世界の人達にとっては、無くてはならないもの。なんだか不思議だ。
「せっかく異世界に来たんだから、私も魔法が使えたらいいのにな。ちちんぷいぷいのぷい!って」
足下に向かってびしっと指をさしてみる。
……もちろん、何も起きない。
「……呪いか何かですか?」
「違うよっ」
憎まれ口も杏李が微笑むのを見て許してしまう。
私って単純だなぁと自分で思った。
「そういえば魔法って、どんな種類があるの?氷柱と雷は前に見たけど」
初めて魔物に出くわした時のことを思い浮かべる。
あの時の恐怖は思い出したくないけれど、魔術は本当にすごかった。そして、それを発動する杏李も格好良かった。
確か部屋でお茶を入れてもらう時、お湯を沸かそうとコンロのようなものに魔術で火を点けたり消したりしているのを見たことがある。
「実験台になりたいんですか」
「口で説明してくれればいいんだけどな……」
「それは残念」
本当に残念そうな顔をする、杏李。私を殺す気なのだろうか。
「実用性の無いくだらない魔術で、こんなものがあります」
少し先の植え込みの前で、顔だけをこちらへ向けられる。私もその場所へ駆けていった。
隣に並んだのを見て、杏李は枝の先を手に取った。青々とした葉の間に一つ、花のつぼみがある。
そこに杏李が手を翳すと手の平が淡く緑に光り、ゆっくりとつぼみが開いていった。五秒くらい経つと、つぼみは白い花になっていた。
その光景は神秘的という表現が的確だろう。とても綺麗で目が離せなかった。
「くだらなくなんて……ないよ」
「そうですか?」
「うん!とっても素敵……」
桜よりも小さめの、可愛くもあり美しくもある花に顔が綻ぶ。
葉っぱだらけの中で、今魔術を施したこの花だけが開いていた。
「植物の中を流れる生命管を操作する魔術です。あまり使い道は無いですが」
「平和的で私は好きだよ」
「……あなたの頭の中も平和ですね」
「一言多いんだから……」
「要するに魔法は、精霊の力と人間が持っている魔力を結びつけて発動させています。おかげで、主に調理面でとても役に立っています」
「じゃあ、この花にも精霊が?」
「正確には木や葉に宿っています。魔法を使う時の光は、集結した精霊です」
なんだか、杏李が博識に見える。
きっとこの世界では常識なんだろうけれど。むしろ、人前で無知を晒す前に聞いておいて良かった。
それにしても、魔法を発動する時の光が全部精霊だったなんて。
人目でも色が分かる位なのだから、きっとものすごくたくさん集まっているんだろうな。
枝の先を目元に近づけて精霊を見つけようとするのだけど、何も見えない。
せっかく異世界に来ているのだから、そういうファンタジーなものをたくさん見ておきたいのに。
そんな意図に気付いたのか、杏李が私の目元に手で陰を作った。
「暗い方が見えます。ものすごく小さいですが」
目を凝らすと、本当に小さな光の粒が見えた。例えるならラメが付着してキラキラしている感じ。
「綺麗……」
精霊の姿形は分からないけれど、大きさも輝きも様々な光達。
元の世界では見られないものだからというわけでなく、純粋に心惹かれてしばらく眺めていた。
「なんだか、何にでもこういう精霊が宿ってるって思うと芝生の上歩くの躊躇っちゃうね」
顔を上げる。
杏李は影を作っていた手を植え込みから外し、私を見ながら『何言ってるんだこいつ』といった目をした。
「まさか、踏むと精霊が死ぬとでも?」
「う、うん……違うの?」
「当然です。万が一そうだとしたら、下等な人間共は宙を浮いて移動しなければなりませんね。今の所、そのような移動方法を俺は知りません」
なんだか言葉に刺がある気がするのは思い過ごしだろうか。
「でも、不可思議ですね。この世界では誰もが必ず精霊を体内に宿しています。魔法を使えない者も同様です。あなたが精霊の存在しない世界から来たなら、それが無いということですよね。精霊を宿していなければ体を構築していられない。今も存在していられるのは、何故なのか……」
杏李は突然真顔になり、何かを考え始めた。
顎に手を当てる仕草が、妙に様になっている。
「そうなの?」
一緒にうーんと唸ってみる。
“体を構築していられない”だなんてぞっとする話だけれど、こちらの世界に来てから特に体の不調を感じたことはない。それどころか、妙な頭痛がほとんど無くなり快適だった。
精霊のことも、精霊と人間の関係性についても全く知らない私はすぐに考えるのをやめた。
まだ思考に耽る杏李が、なんだか微笑ましい。
最初は、あまり感情を表に出さなくて怖い人だと思っていた。でも、こんな風に一つのことに熱心になれる一生懸命な人なんだ。
基本的に意地悪だけれど……
「まあ、それは追々調べておくことにします。戻りましょう。休みすぎました」
すっかり稽古のことを忘れていた私は、慌てて元居た場所へ戻った。日陰の位置が少し動いている。
気怠そうに剣を拾い上げる杏李を横目に見ながら、もう少し話していたかったな、なんて思っていた。
もちろん世の中はそんなに甘くはなく。
その後日が暮れるまで杏李には鬼のように厳しい稽古を付けられたのだった。
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