episode1
カナちゃんとろくに会話すらしなくなって二週間が経っていた。
いつも一緒にいたせいで、クラスメイトから『どうしたの?』だとか『まだ喧嘩してるの?』だとか毎日尋ねられ、その度に適当にあしらった。
休み時間になると、カナちゃんは必ずと言っていいほど誰かに声を掛けられていた。
本性を知らないとはいえ、これだけ人気のある人と毎日一緒にいたのだ。今までは気付かなかったけれど、何気にすごいことだったんだなと思う。
ぼんやりしている間に朝のホームルームが終わり、少しずつ教室内が賑やかになってくると、先生が声を張り上げた。
「向井さんと逢須さんは職員室まで来てね。すぐ終わるから」
それだけ告げて出て行く。
呼び出されるようなことをしたつもりはないのだけど。
もしかして、カナちゃんが天使だったり私が霊代であることがバレたのだろうか。
それとも今気まずい状況になっているのを知られて、仲良くしろと注意されるのだろうか。
Chapter3「Frere」
職員室という場所は、どうしてこうも緊張するのだろう。悪いことをしたわけでもないのに。
今回は呼び出された理由が分からないから尚更。
しかも、職員室は場所こそフルール館だけれど、男子の館“エトワール”と共用。男性教諭もいれば男子生徒もいるのだ。
一人で職員室まで来た私は、深呼吸してゆっくりドアノブを回した。途端に、コーヒーの苦い香りがした。
担任のデスクまで辿り着くと、籠を一つ強制的に持たされた。
中には大量のメモリーカードが入っている。
「全員に配っておいてくれる?」
「え」
その為に呼び出されたのだろうか。
確かに、いつも配布物がある時に任されている委員長が今日は体調不良で休みなので、納得出来ないわけでもないけれど。
どうして人選がカナちゃんと私なのか、という疑問は残る。
「そっちは“ついで”。こっちが本題」
先生が更に一枚のメモリーカードを持って手渡してくる。
ケースに『問題集・解説』と印刷されていた。
「補習授業を受ける生徒に特別配布されるの。追試でコケたら留年の可能性もあるから、しっかりね」
留年だなんてぞっとしない単語だ。日頃、もう少ししっかり勉強しておけば良かったと後悔する。
『転校したから勉強している所が違いました』という言い訳も出来るには出来るけれど、実際そんなに差があったわけじゃないし、言い訳したってどうしようもない。
それより、私が気になっているのはカナちゃんも呼び出されたことだ。
「向井さんも追試組なんですか?」
「そう。うちのクラスの追試組は向井さんと逢須さんの二人。二人とも転入してきたばかりなのに大変だけど、こればっかりはどうしようもないから頑張って」
苦笑されながらの激励。なんだか恥ずかしくなって、私はさっさと職員室を去ることにした。
ドアノブに手を掛ける。すると、自動ドアでもないのに勝手に開いた。
びっくりして飛び退いた。
「あ、ごめんなさいね。あら、あなた……」
生徒が入ってくる。タイの色が青なので三年生だ。この人が、ちょうど同じタイミングで外から開けたらしい。
金髪のボブに空色の瞳が映えて、綺麗な人だった。
その綺麗な先輩が、私の顔をまじまじと見た。
まさか、朝ご飯が顔に付いているのだろうか。
慌てて顔を手で拭う。
綺麗な先輩がくすくすと笑った。
「大丈夫よ、何も付いてないから」
やばい、この上なく恥ずかしい。
「あなた、あの時の子よね?」
「あの時?えっと……どこかでお会いしましたっけ?」
三年生の知り合いなんていないはずだ。いたら忘れないだろうし。
「そう。あの時意識無かったもの。知らなくて当然よね。元気そうで何よりだわ」
先輩はまた微笑んで『それじゃ』と上品に手を振り、何も分かっていない私を残して行ってしまった。
「誰だろ……」
「愛依が溺れ死にそうになった時に助けた物好きよ」
「うわっ」
先輩の後ろ姿を眺めていたら突然背後から声を掛けられ、また飛び退いた。
振り返ると、同じく呼び出しを食らったカナちゃんがいた。
「か、カナちゃん……久しぶり……」
気まずくて、この程度の発言しか出来ない。
「毎日顔合わせてるのに、何が『久しぶり』よ」
まだ怒っているのだろうか。カナちゃんの声色は冷たかった。
それ以上何も言わずに、職員室の中へと姿を消す。
心に穴が空いたような気持ちになった。
声を掛けられたことで、私は期待していた。仲直り出来るのではないかと。
思えば、カナちゃんが今までどんな思いをしてきたかを微塵も知らないのに、私はデリケートなところにズケズケと土足で踏み入りすぎた。
私は幼い頃に父親を亡くして、お母さんとも擦れ違うことの多い生活を送っている。女手一つでここまで育ててくれたお母さんには感謝しているし尊敬もしている。
でも、少なからず寂しいのも事実で。
だから、家に帰ればお母さんがいて、朝家を出る時はいってらっしゃいと言ってもらえるのに両親を邪険にすることが許せなかった。……ズルいと思った。
だけどやっぱり、それをカナちゃんに押しつけるのは良くなかったし、私からきちんと謝らなきゃいけない。
カナちゃんが職員室から出てくるのを待つ。
許してもらえないかもしれない。無視されるかもしれない。
覚悟を決めたとはいえ、そうなったらヘコむ。
「あの時はごめんね、カナちゃん。あの時はごめんね、カナちゃん」
緊張を解すために、小声で念仏のように唱え続けた。
しかし、
「……愛依子?」
決死の覚悟を打ち砕くように誰かが私を呼んだ。
反射的に顔を上げる。
「……げっ」
逃げ出したくなった。
「め……愛依子おおおおお!」
私の名を呼んだ人物は満面の笑みを浮かべ、一目散にこちらへ駆けてきた。
逃げ出す前に、強く抱き締められる。
「会いたかったぞ、愛依子っ!」
「痛いんだけど……お兄ちゃん……」
そう、この人は紛れもなく、私と血の繋がった兄なのである。
「正月振りだな。せっかく越してきたというのに、顔も見せられなくて悪かった。元気にしていたか?悪い虫は付いていないか?」
「お兄ちゃんのせいでね……」
「そうか、なら安心だ」
何を隠そう、この過保護すぎる兄のせいで、この年頃なら誰もが一度は経験したことがあるであろう初恋すら、私は経験したことがないのである。
記憶の中で一番古いのは、まだ小学生の頃だ。お兄ちゃんは常に私の傍にいた。口癖のように『愛依子は俺が守る!』と言って。
もちろん最初は嬉しかっただろうけれど、如何せん度が過ぎた。
少し男子と話すだけで睨みを利かせるし、カエルを持って追い回された時には、相手の机の引き出しが次の日カエルだらけになっていたり……
以来、男子が私を避けることが増えた。おかげで、男子に対する免疫があまり無い上に、関わりが薄くなればなるほど男子=お兄ちゃんといった先入観が強くなり、どうにもいいイメージが持てないのだ。
当然世の中の男子達に罪はない。頭では分かっているのだけれど、どうしても“ドキドキする”とか“キュンとする”といった感覚は理解できない。
お兄ちゃんと同じ高校に通うのは心底嫌だったものの、別館だから問題ないと思っていたのに。
まさか校舎内で会ってしまうなんて……
誰も通りませんように……
そう祈っていると、職員室のドアが開いた。
「……何してるの?」
用事を済ませたらしいカナちゃんだった。
慌ててお兄ちゃんを引き剥がす。
「かっカナちゃん……っ」
「愛依子の友達か?」
カナちゃんは私達の顔を見比べると、知り合いだと理解したようで通称“天使モード”の笑顔を浮かべた。
「えぇっと……愛依の彼氏?」
「惜しいが違う」
「惜しくない!かすってもいない!」
「愛依子の兄、逢須流風(るか)だ」
「愛依と同じクラスの向井カナタです。愛依にはいつも仲良くしてもらってます。よろしくお願いします、お兄さん」
カナちゃんが右手を差し出す。お兄ちゃんがそれを握って握手を交わし、離す。
一瞬のことだった。けれどその“一瞬”の間に、私はカナちゃんがニヤリと笑ったのを見た。
「愛依、急がないと予鈴が鳴っちゃうわ。お兄さん、失礼します」
「あ……じゃあね、お兄ちゃん」
「ああ。またな」
軽く会釈して歩き出すカナちゃんを追いかける。
隣に並ぶ勇気はまだ出なかったので、一歩後ろに付いた。
「よく似てる兄ね」
「え?うん、よく言われる」
髪色と目の色がほぼ同じだから、すぐに兄妹だと分かるそうだ。
「あ、あのさ、カナちゃん……」
お兄ちゃんの話はどうでもいい。
カナちゃんには、言わなければいけないことがある。
思い切って話を変えた。
「この間は、その、ごめんね。私、カナちゃんのこと考えないで酷いこと言って……」
「……許すわ」
「…………え」
それがあまりに予想に反する答えで、私の足が止まる。
振り返ったカナちゃんは、今までのことが嘘のようにすっきりした顔で私を見た。
「私こそ、ごめんなさいね」
急に手の平を返したような態度の変わりように驚いたけれど、嬉しい気持ちがそれを上回る。拒絶される不安ばかり募っていたから。
「ホントに……?じゃあ、一緒に補習授業通いたいな、なんて……」
途端に、カナちゃんの眉間に皺が出来た。
「どうして知ってるの?」
「え?だって先生がカナちゃんも追試だって……」
「あの教師にプライバシーって言葉を教えてやりたいわね」
そう言って溜息をつく姿が、なんだか懐かしくておかしかった。
「追試が無事に終わったら、いっぱい遊びたいなぁ。せっかくの夏休みなんだし」
「そうね。私は愛依のお兄さんと仲良くなりたいわ」
「え」
予想外の返答パート2だ。
どうして、ここでお兄ちゃんが出てくるのだろう。もしかして、一目惚れというやつだろうか。
その割には、あまり恋してる風には見えない。どちらかというと、何かを企んでいるような……
先程カナちゃんが不気味に笑っていたことを思い出した。
「ねえ、カナちゃん。さっき……」
その時、最悪のタイミングで予鈴が鳴った。
「やばっ」
メモリーカードを配る役目もあったので、私達は急いで教室へ戻った。
せっかく仲直り出来たのに、また気まずくなるのを恐れた私は、カナちゃんが何かを企んでいるんじゃないかという疑問について、結局何も訊くことが出来なかった。
そんなことはすぐに忘れてしまうくらい残り少ない一学期は駆け足で過ぎ去り、夏休みが始まった。
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