episode5
「どうぞ」
「あ、ありがとう、ございます……」
目の前に高級そうなティーカップが置かれた。中の紅茶から白い湯気が立ち上り、甘い香りを運んでくる。
カップの中に小さく写る自分の顔を眺めて一息ついてから顔を上げれば、満面の笑みで私を見る人妻がいる。人妻であり、カナちゃんの母親である人。
学校帰りにカナちゃんの家に招待され、着いた途端に女性がニコニコしながら手厚くもてなしてくれた。
カナちゃんと同じ赤い髪に緑の瞳。顔も似ている。
ただ、カナちゃんとは違っていい人そうだ。カナちゃんも最初はいい人だったのがああなってしまったから、油断は出来ないけれど。
その女性がお姉さんだと思っていたらお母さんだと聞かされ、声が出なくなるくらい本当にびっくりした。
カナちゃんは着替えると言って自室へ行ってしまい、今お母様と二人っきりなのである。
「いっいただきますっ」
あまりに見られるので気まずくなり、じっとしているのがつらかったので紅茶を飲んだ。
「お口に合うかしら?お砂糖とミルク、遠慮なく使ってね?」
「はいっありがとうございますっ。と、とても美味しいですっ」
綺麗な人を前にした緊張と、いつ本性を現されるかという警戒心が混ざって、異様に心臓が速く動く。
「改めまして、カナタの母親の、マリア・リヴェ・フィーノです。よろしくお願いしますね」
「逢須愛依子ですっ。よよよよろしくお願いしますっ」
女の私でも惚れ惚れしてしまうほど綺麗な笑顔。そして、綺麗な名前だった。
けれど疑問が浮かぶ。カナちゃんのフルネームは“向井カナタ”だったはずだ。
まさか血の繋がらない親子?それにしては容姿が似すぎている。
「カナタの一番最初の霊代になってくれたのが女の子だなんて」
マリアさんが頬に手を当て、何故か照れ笑いした。
「うちの子、何か迷惑を掛けたりしてない?」
めちゃくちゃしてます。とは言い難かったので、
「えーと……大丈夫です」
と答えておく。本当は全然大丈夫じゃないけれど。
すると、それまで優しい笑みを浮かべていたカナちゃんのお母さんの表情が急に曇った。
期待外れな答えだっただろうか?普通なら、一番安心出来る答えのはずなのに。
「カナタはハーフだから、他の天使と比べて力が弱いことはもう知ってるのよね?それが原因で小さい頃にからかわれたりして、天使も人間も嫌うようになってしまったの。この世界に来て三ヶ月経ったのに友達の一人も連れてこないから、上手くいってないんじゃないかって心配してたのよ」
“知ってるのよね?”と尋ねられたが、知らないことばかりだった。
カナちゃんにそんな過去があったことも、ハーフだったことも。
“ハーフ”。どの学校にも一人はいるだろう、よく聞き慣れた言葉。
もしかしたら天使の世界にも国がたくさんあって、両親の国籍が別々なのかもしれない。けれど、マリアさんの口振りからするに、カナちゃんは天使と人間の子供。
私が知るよりずっと深い闇が、カナちゃんの心に潜んでいる気がした。
「あのことは知ってるの?」
「あのこと?」
「あ、マスター」
背後から、話の腰を折る声。
振り向かなくても誰か分かる。私のことを“マスター”と呼ぶ奴なんて、この世で一人しかいない。
「そういえば、アレスもここにいたんだったね……」
「カナタのやつ、本当に連れてきたのか」
「う、うん……早く帰らないといけないわけでもないから……」
とはいえ、どんな用事で連れてこられたのかは聞かされていないので、恐怖である。
私達のやり取りを眺めていたマリアさんが、くすりと笑った。
先程までの悲しそうな顔とは違い、やはり綺麗な笑顔だった。出会ったばかりのカナちゃんを思い起こさせるほどよく似ていた。
「アレスとも契約してくれて、愛依子ちゃんは優しいのね」
「……とんでもないです」
どっちも知らないうちに勝手にされましたとは言えまい。
「叔母さん、叔父さんが電話しても出ないって俺に言ってきた」
「あ、いけない。愛依子ちゃんに会えるのが楽しみで、つい」
『携帯携帯』と口にしながら、子供のようにバタバタと走って廊下へ出て行く。
容姿は似ていても中身はカナちゃんとは似てなさそうだ。
アレスと二人で取り残される。
「カナタの部屋まで案内しようか?」
「え、なんで?」
「暇かと思って」
まあ、客人の身でうろつくわけにもいかないから、じっとしているしかなくて暇と言えば暇だけど。
そもそも、着替えると言っていただけなのに、カナちゃんが一向に出てこない。誰も気にしていないようだけれど、いつもこんなに遅いのだろうか。
様子が気になったので、アレスの言葉に甘えることにした。
アパート住まいの私と違い、カナちゃんの家は一軒家。
階段を上って少し進んだところにカナちゃんの部屋はあった。
途中、別の部屋からマリアさんの声がしたから、旦那さんと電話しているのだろう。
「かーなーちゃーん」
ドアを叩く。
と、ものすごい勢いで開け放たれた。
眉間に皺を寄せたカナちゃんが、そこにいた。もう暖かい季節なのに、ジーパンとタートルネックの五分丈ニットというめちゃくちゃ暑そうな格好で。「やめなさいよ、ガキじゃないんだから……」
「この方がすぐ出てくるかなって思って」
「普通に呼んでもすぐに出るわよ」
長い髪に手を差し込んで、溜息をつかれた。
「で、何か用?」
「用って……カナちゃんが連れてきたのに……」
いきなり家に来いと言っておいて、着いた途端放置なんて酷い。見たところ着替えは終わっていたようだし。
カナちゃんは少しも悪びれる様子もなく言った。
「私は連れてこいと言われたからそうしただけ。あの人が愛依にもう用が無いなら、帰っていいわ」
むかっときた。けれど、まだ冷静さの残る頭で考える。
母親のことを“あの人”と呼ぶ辺り、マリアさんとは何か確執がありそうだ、と。
生半可な気持ちで突っ込んでいい事情ではないことは理解しているけれど、霊代やら主人になったのだから、少しくらい知る権利があるはずだ。
思い切って訊いてみる。
「カナちゃんってさ、ほんとはカナタ・リヴェ・フィーノっていうの?」
「……聞いたの?」
予想通り、いい顔はしなかった。
「それだけじゃないよ。カナちゃんがハーフだってことも。どうして人間が嫌いなのかも」
今まで黙ってたということは、知られたくなかったということ。それを承知で告げると、おもむろに舌打ちされた。
怯みそうになる。じわりと手に汗が滲んでいた。
「それで?バカにしにきたってわけ?」
「そうじゃなくて……」
「それなら、人間の偉大さを説きにでも?」
今まで見た中で一番怖い顔をしている。
それでも、このくらいで引き下がっていたら、これから先ずっとカナちゃんにヘコヘコしていかなければならない。
天使と人間という立場上の違いはあれど、対等になれない。
「……人間はバカだよ。必要以上に楽しようとして大地を壊した大馬鹿者だよ」
そうだ。こうして私達がお天道様の光を浴びることができないのも、外の空気を吸えないのも、全て人間のせい。
カナちゃんは、『よく分かってるじゃないの』と鼻で笑った。
「自分で壊しておいて、治せないと分かると非現実的な力にすがる。私達を“天使”と呼び始めたのも人間なのよ。ちょっと人間には無い力を使えるからって神だの天使だのって崇めて。こうしてまた不自由なく生活出来るようになれば、過去の過ちを忘れてまた繰り返す。本当呆れるくらいバカ」
カナちゃんの言うことは尤もだ。
人間は弱い生き物だから、どうしようもなくなった時は人外の力に頼ろうとする。すぐに祈り始める。
でも、だからこそ、みんなで手を取り合って生きていく素晴らしさを知っている。
過去のことをずっと覚えていることは出来ないし、過ちを繰り返す。でも、繰り返さない為の努力をしている人だって大勢いる。
知らん顔で好き勝手する輩も当然いるけれど、そういった奴と“人間”と一括りにされたくはないし、偏見されたくない。
「その愚かな人間の血が流れてるのよ。自分さえ愚かに思えてくるわ」
カナちゃんは嫌悪感を隠そうともせずに言った。
私はカッとなって、握った拳に力を込めた。
「愚かだよ」
「……何?聞こえなかった」
本当は聞こえているのは明白。
『今のうちに止めれば許してあげる』とでも言いたそうな顔だったけれど、私は負けない。
「カナちゃんは愚か者だよ。確かにハーフだからって差別されて大変な思いをしたかもしれないけど……カナちゃんが傷ついたのは、人間のお父さんのせい?人間と結婚したお母さんのせい?そもそも、人間に力が無いせい?私は、違うと思う」
「……一応続きも聞いてあげるわ」
「弱いことって悪いこと?力が無いことって悪いことなの?だって、この世界ではそんな不思議な力は使えないのが当たり前なんだよ。カナちゃんが天使とのハーフでも、バカにする人なんていない。カナちゃんはこっちで暮らすために試験を受けてるんでしょ?なら尚更、そんなこと気にすることないじゃん。私は……っ!私はカナちゃんと友達になれて嬉しかったし、理不尽なこともいろいろあるけど、今でも良かったと思ってるよ!だから!」
人間もそんなに悪いばかりの存在ではないと、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。
遠回しに私のことも否定されている気がして、少し認めてほしくて。
「…………」
恐る恐るカナちゃんの表情を伺ってみると、やはり不機嫌そうだった。
そもそも、こんな説教じみたことを言いたかったわけじゃないのに。これでは神経を逆撫でしてしまう。
なんだかんだで、私はカナちゃんを恐れて、顔色を窺ってばかりだ。
私達は、本当は微塵も“友達”と呼べない関係だったんじゃないだろうか。なんだか心の距離というか、壁を感じる。
そう思うと急に虚しくなって、やるせなくなって、何も言う気になれなかった。
「愛依子……」
ずっと黙っていたアレスが、心配そうな声で私の肩を叩く。
「ちょうどいいわ、アレス。そのまま愛依を家まで送ってきて」
カナちゃんの部屋のドアが静かに閉まる。アレスと私がぽつんと取り残された。
要するに“帰れ”と言いたいのだろう。
涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。
「……大丈夫、一人で帰れるよ」
「そうはいかない。もう暗くなるし」
「その通りよ、愛依子ちゃん」
別の部屋から、突然マリアさんが出てきた。いつ通話が終了したのか、手には携帯が握られている。
「アレスはもうすぐ羊になっちゃうし、私が送っていくわ」
完璧すぎる微笑みを見たら断れなかった。カナちゃんのように威圧してきて怖いわけではなく、断るのが申し訳なく思えて。アレスに大した挨拶もしないで、マリアさんと家を出た。
本当に、あと数分で夜になりそうな空だ。
道の脇の街灯が点灯し始める。
「ごめんなさいね。カナタが酷いことを言って……」
「いえ、事実ですから」
ゆっくりゆっくり歩く。
やはり、聞こえていたようだ。廊下で言い合っていたのだから当然だけれど。
「カナタがああなってしまったのは、私の責任でもあるの」
「マリアさんの?」
こんなに優しそうな人に原因があるなんて信じがたい。
マリアさんは前を向いたまま、口元に苦笑を浮かべた。
「カナタが産まれて少しの頃に働きに出たから、兄の家……アレスの家ね。そこに預けることが多かったの。18で結婚したからいろいろと大変でね、あの子が虐められてる頃もあまり傍にいてあげられなかった……寂しい思いをさせてしまったと思うし、信頼できない母親だと思われても仕方ないことをしてしまったわ。一度できた溝はなかなか埋められないのね。……ごめんなさい。愛依子ちゃんに言い訳してもどうしようもないのに」
マリアさんは泣きそうな顔で俯いた。その表情だけで、本当に過去を悔やんでいるのが分かる。
その顔が一瞬、まるでカナちゃんが苦しんでいるかのように見えた。
“私だから話してくれた”のか、“私なんかにもこぼしてしまうほど溜まっていた”のか、意図は分からない。
だから何も返せなかった。なんて言えばいいのか、適当な言葉も見当たらない。
「私がこんなこと言うのも変だけど……カナタのこと、見捨てないであげてくれると嬉しいわ」
「あ……それは大丈夫です、多分……」
今回のことで霊代を辞めるつもりはない。と言うか、辞め方を知らないだけなのだけど。
ただ、私がどうこうという以前に、カナちゃんから離れていく可能性は十二分にある。
それを理解しているのか、マリアさんはそれ以上何も言ってこなかった。
Chapter.02「diable」 End
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