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来ないで殺さないで売らないでと人聞きの悪いことをわめいた子供をどうにか宥めて、俺がようやく落ちついてリビングのソファに座ることが出来たのは、子供が鳥から変身してから三十分も経ってからの事だった。
そこそこ防音の効いたマンションでよかった。そうでなかったら隣近所に通報されているところだ。
子供はまだぐすぐす泣いていて、少し眠たげだった目が真っ赤になって腫れている。
鼻水もたれていて、先ほど差し出したが拒否されたタオルはフローリングに座り込んだままの子供のそばに落ちていた。
「ここ、どこ、よい。マル、モビーにかえるよい……っ!」
「どこと、言われてもなァ」
嗚咽交じりに言葉を零されて、俺はぽりぽりと頭を掻く。
むしろ、どうしてこの子供が俺の部屋にいたのかが分からない。
窓は締め切っているし、当然部屋の鍵も掛かっている。ましてやこのマンションはオートロックで、外から室内への不法侵入はとても難しいのだ。
そして何より、鳥から人になれる生き物を、俺は知らない。
ニュースで聞いたこともないし、まったりやってきたとは言え義務教育も終わらせて高校も卒業した俺が知らないという事は、そうメジャーな生物でもないはずだ。
日本の化学力の結晶か?
だとしても、どうしてそんな存在が俺の部屋にいるのかがやっぱり分からない。
金髪の子供を見やって首を傾げた俺の前で、子供はまだまだぐすぐすと泣いている。
こんなに泣いたら干からびるんじゃないだろうか。
しばし子供を眺めて、うーん、と唸ってから俺は立ち上がった。
急に動いた俺にびくりと子供が反応して、怯えた目がこちらを見上げてくる。
またさっきのようにわめかれてはうるさくて敵わないので、俺はあまり子供に近づかないように迂回しながらキッチンへ向かった。
男の一人暮らしに似つかわしい小さめの冷蔵庫を開いて、食材のほとんど見当たらないそこから冷えた水入りのペットボトルを取り出す。
ついでにコップを一つ持って戻ってくると、子供は俺の一挙一動を見逃すまいと言いたげにその視線をこちらへ集中させていた。
子供のそばへ近寄って、怯えて身を引く子供の前に屈み込む。
平均より少し大きい俺がそうやると威圧感があるのか、子供はますます怯えた顔をした。
いい加減傷付くぞ、おい。
「ほら、飲め」
キャップを空けてコップへ水を注いでから、コップを子供へ差し出した。
俺の動きを見つめて、子供は困惑したように俺とコップを見比べる。
手を伸ばしてこない子供のそばにコップを置いて、俺は少しだけ身を引いた。
あれだけ叫んで泣いたのだから喉も渇いているだろうに、赤い目をした小さな子供は、それでもコップへ手を伸ばさない。
何かを警戒しているようなその眼差しを受けて、どうしたのかとその顔を眺めながら、俺は自分の手に残っているペットボトルへ口をつけた。
寝起きに水分補給もしないでいたからか、どうも喉が渇いていたらしい。ごくりと飲み込んだ水分が喉に染み渡る感覚に、そんなことをぼんやり考える。
残っていた水を俺が半分くらい飲んだところで、子供がおずおずとコップへ手を伸ばした。
持ち上げたコップへ口をつけて、こくり、と中身を飲み込む。
一口飲めば勢いがついたのか、口からペットボトルを離した俺の前で、ごくごくごく、と喉を鳴らした子供は水を全部飲み込んだ。
ぷは、と小さく息を漏らしながらコップをおろして、子供が改めてこちらを見やる。
「落ち着いたか?」
それを見下ろして声を掛けてみたが、子供は返事をしない。
まぁ、返事のしようもないだろう。俺だっていまだ困惑している。
だけどとにかく、この意味の分からない状況を打開するためには理解が必要だ。
俺は少しばかり居住まいをただし、口を開いた。
「……とりあえず、状況を整理しよう。まずは自己紹介するか。俺はナマエだ」
自分を指差して子供へ言うと、ぱちり、とその目が瞬いた。
そういえば、金髪でどう見ても異邦人の風体なのに、この子供は日本語を使っているな。
しかし、やはり日本に鳥から人間になれる生物がいるという話は聞いていない。
「お前は?」
つらつら考えながら尋ねると、子供はそっとコップをフローリングへ置いた。
小さな口が少しだけ開いて、ここに来てようやく、少し落ち着いた声がそこから零れ落ちる。
「マルコ、よい」
どうやら小さな彼はマルコと言うらしい。
『よい』なんて口癖のついてしまっている子供に頷いて、俺は更に口を動かす。
「そうか。俺は27歳だが、マルコはいくつ?」
「マル、よっつよい……」
「分かった。ここは俺が住んでいる部屋だ。鍵がかかっていたはずだが、どうやって入った?」
「マル、ねてたよい。……おきたらここにいた、よい……」
俺へと答えながら、子供がうつむく。
あれだけ大泣きしていたのだから、その言葉に嘘は無いのだろう。
そう判断して、俺はペットボトルのキャップを閉めた。
どうして鳥から人間になったのか知りたいところだが、今そんなことを聞いても仕方ない。
とりあえず、さっさと保護者に連絡して引き取ってもらおう。
「自分の家の電話番号は分かるか?」
「でんわ?」
「……知らないか。自分の家の住所……家がどこにあるのかはわかるか?」
「モビーはふねだから、うみのうえよい。グランドラインよい」
「グランドライン……?」
はて、どこかで聞いた単語だ。
首を傾げた俺を見上げたマルコは、俺を不思議そうに見上げた。
「グランドライン、しらないよい?」
「聞いたことがある気はするんだが……そうだな、知らない。地域の名前か?」
「こーろのなまえよい! カームベルトにはさまれてて、せかいいっしゅうできるよい!」
「カームベルト……?」
「カームベルトはかぜのないうみよい! かいおーるいがいっぱいいるよい!」
「……カイオールイ?」
「うみのいきものよい! すっごくすっごくおおきいよい。オヤジよりおおきいよい! でもオヤジはすぐやっつけちゃうよい!」
「俺はお前の父親を知らないんだが……」
一生懸命説明されたが、やはり分からない。
『グランドライン』同様、少しだけ聞き覚えがある気もするが、一体どこでだったろうか。
もう一度首を傾げた俺を、マルコはまるで理解できないものを見るような目で見た。失礼な子供だ。
「……ここ、このしまは、グランドラインにあるしまじゃないよい?」
「島? ああ、今俺とお前がいるのは日本という島国で、確かに海にあるがグランドラインとかいう海じゃない。世界的にも、太平洋北西部にあると認知されてるな」
「ニホン、しらないよい。たいへーよー……?」
「まだ分からないか……ああそうだ、ちょっと待て」
小さな子供が分かるはずが無いかと頷いて、俺はすくりと立ち上がった。
俺の動きにびくりと体を揺らした子供を置いて、彼へ背中を向ける。
戻った先は先ほどまで寝ていたベッドのある寝室で、ベッドヘッドに適当に放置してあった埃まみれの古びた冊子達の中から目的のものを手に取った。
片付ける気も起きなくて放置していた昔の参考書だが、確か後ろに世界地図があったはずだ。
ふぅ、と埃を吹いて、ふわりと広がったそれを少しばかり吸い込んで咳き込みつつ、参考書を片手に来た道を戻る。
俺の一挙一動を見守っていたらしいマルコがまた身構えたが、俺は気にせず先ほどと大体同じ場所に座り込んだ。
「ほら、地図だ」
ペットボトルを置いてから両手で参考書を広げてやって、地図をマルコの目の前に晒す。
よくニュース番組などで天気予報もやっているから日本列島の形くらいは知っていそうだが、念のためどれが日本なのかくらいは教えておくか。
「ここが日本」
分かりやすく地図の中央に書かれた我らが島国を指差すと、マルコはぱちぱちと瞬きをした。
瞳を大きく見開いて、それからへにょりと眉が下がる。
どうしたのかと見ていたら、その目にまたも涙が溜まりはじめたので俺はぎょっとした。
「お、おい?」
「これ、どこよい……」
丸い頬を伝った涙が、ぼたりとフローリングへ落ちる。
「マル、こんなの、しらないよい!」
戸惑っている間に短い手が俺へと伸びて、無理やり俺が持っていた参考書を奪い取った。
それがそのままリビングの端まで投げつけられて、かわいそうな参考書は壁へぶつかりフローリングへ着地する。
「……どうしたんだ」
地図を見ただけで、こんな反応をするものか。
俺が声を掛けると、マルコはキッとこちらを睨んだ。小さな子供に睨まれたところで怖くもなんとも無いが、先ほどまで必死に取っていた距離を自らつめられて、俺は僅かに身を引く。
けれどもマルコはそれに構いもせず、振り上げた拳でぽかぽかと俺の体を叩いた。
「ナマエ、うそつきよい! あんなのちずじゃないよい! マルがオヤジにみせてもらったのと、ぜんぜんちがうよい! あんなの、ちがうよい!」
「ちょ、おい、いたっ」
小さな子供とは言え全力で殴られては、少々痛い。
どすどす体に響く痛みに困惑しつつ、俺はとりあえず立ち上がることで避難しつつ、かがみながら両手でマルコの手を捕まえた。
攻撃をさえぎられたマルコが、自由を取り戻そうと体をよじる。
それでも俺が手を放さないと、今度は人の足に蹴りをいれ始めた。
「はなせ! ナマエ、ひとさらいよい! やっぱりマルのことうるつもりよい! はなせ! かえせ!」
「さっきから、人聞きが悪い。俺はお前をさらってないし、人間を売ったりしない。こら、そこそこ痛いからやめろ」
「うそつき! はなせ! はーなーせー!」
顔を涙でぐしゃぐしゃにして、更には真っ赤にして、マルコはひたすら俺の足を蹴る。
これはらちがあかない。
ため息を吐いて、俺は掴んでいたマルコの両手を片手にまとめて持ち直した。
ぐいと引っ張られた拍子にマルコの体が反転して、背中側からその体を抱える。
「はなせ!」
「ちょっと落ち着け」
じたばた暴れるマルコの体を片手で抱えたまま、改めて座り込んだ。
マルコも無理やり座らせて、これ以上蹴られたりしないようにする。
自分の攻撃が防がれたと気付いたらしいマルコが俺の腕から逃げようとしているが、逃がしたらまた攻撃されるだけだと分かっているので、手を離すつもりはなかった。
小さな子供だからか、妙に興奮しているからか、マルコの体は熱い。それとも熱でもあるんだろうか。子供の世話なんてしたことがないからよくわからない。
ヘッドバットを食らわないようマルコの頭から少しばかり顔の位置を逸らしつつ、マルコの言動を思い返した俺は、ふとマルコの口走っていた単語をいつ聞いたのかを思い出した。
もうずいぶんと前の話だ。
頭の中に浮かんだのは週刊の少年漫画雑誌で、読まなくなってからもかなり経つ。
『グランドライン』も『カームベルト』も『かいおうるい』も、確かあの漫画の用語だった。
けれども、子供がごっこ遊びをしているにしては、マルコの様子はおかしすぎる。
まるで、本当にあの世界で生きている人間のようだ。
それに、夢と現実の区別がつかなくなった子供というにしては、ここにいる状況も変だった。
何より、鳥から人間になった子供なのだ。
「……」
もしかして。
それはものすごく突飛な考えで、けれどそれ以外に無いような気がする。
ううむと俺が眉を寄せている間に、はなせ、かえせと必死に声を荒げながら暴れていたマルコの動きが、だんだんと弱くなっていく。
それと共に声も小さくなっていって、その代わりにひっくと嗚咽が漏れた。
どうやら、また泣き出したらしい。
「モビーにかえる……かえりたい、よい……っ!」
ぐすぐすとはなをすすりつつ訴えられて、帰してやれるもんなら帰してるんだがな、と俺は呟いた。
「お前は急に現れたんだ。だから、俺が帰してやる事は難しい、と思う」
「……うぅー……っ」
「……なァ、マルコ」
猫が唸るように声を漏らしながらぼろぼろ泣きじゃくるマルコへ、そっと俺は声を掛ける。
「もしかして、お前は別の世界から来たんじゃないか」
俺の言葉に、一瞬、マルコの動きが止まった。
ずび、ともう一度だけはなをすすってから、マルコの体から力が抜ける。
片手でマルコの体を抱えたまま、俺はそっとマルコの手を離した。
「お前は日本も太平洋も知らない。俺はグランドラインもカームベルトもカイオウルイも知らない。俺にとってさっきのアレは世界地図だが、お前にとっては違うんだよな?」
確認するように言って、俺は抱えたままのマルコの体を反転させた。
小さな子供はうつむいていて、座っても俺のほうが視点が上だからその顔が見えない。まぁ、たぶん涙やもろもろでぐちゃぐちゃだろう。
片手を動かして、先ほどマルコに拒否されたタオルを手繰りよせる。
片手に持ったそれでマルコの顔を軽く拭いてやりながら、俺は言葉を続けた。
「俺は、お前みたいに鳥から人間になれる存在を見たことがないし、聞いたこともない」
真っ青な火の鳥だったはずのマルコは、されるがままだ。
「ここはたぶん、お前がいたのとは別の世界だ」
四歳らしいマルコが、俺の台詞をどこまで理解できたのかは分からない。
けれども、先ほどのように暴れたりしない様子からして、少しは分かったらしいという事も分かった。
ごしごしと顔を拭いた後でタオルを離そうとすると、マルコの小さな手が自分の顔を隠すようにタオルを抑える。
どうしたのかと思いながら手を下ろして、俺は顔を隠した子供を見た。
「……マル、かえれない、よい?」
布越しにくぐもった声を漏らして、マルコが呟いた。
途方にくれたようなその音に、俺が分かるわけないだろう、と答えそうになったのを飲み込む。そんな風に言ったら、たぶんこの子供はまた泣くだろう。俺は誰かを慰めたりすることが苦手なのだ。
「……方法はわからないが、来たんだから帰れる、と俺は思う」
どうにか言葉を選んで、俺は少し汗ばんだマルコの頭を撫でた。金髪がへちょりと額に張り付いているのを、指で軽く払う。
そうだ。マルコは急に現れたのだ。
だったら、突然帰ってしまうに決まっている。
『いつか』帰れるその日を待っていればいい。
しかし、これからどうするべきだろうか。
とりあえず分かるのは、マルコを放り出すことは出来ないだろうということだ。
こんな小さな行き場も無い子供を路頭に迷わせるわけにも行かないし、警察に『異世界から来たみたいなんですけど』と言って保護してもらえるわけもない。下手をすれば誘拐を疑われかねない。
少しばかり考えて、仕方ないか、と小さく息を吐いた俺は、それからまだタオルで顔を隠したままのマルコへ囁いた。
「帰れるまでは、うちにいるか」
どうせ、今のところバイト以外にやることもないのだ。
得体の知れない子供と過ごすのも悪くないかもしれない。
俺の言葉が耳に届いたのか、マルコの手がおずおずとタオルをおろした。
その目が、伺うようにこちらを見ている。
「マルのこと……おい、ださない?」
子供らしからぬその様子に、俺はとりあえずもう一度マルコの頭を軽く撫でた。
「そこまで人でなしじゃないな。お前に行くあてがあるなら話は別だが」
突然現れたマルコにそんな場所がない事は分かっている。
俺の台詞を聞いて、マルコがぱちぱちと赤くなった目を瞬かせた。
その手がぎゅっとタオルを握り締めて、それから小さな口が言葉を紡ぐ。
「……さっき……たたいて、ごめんなさい、よい」
小さく小さく寄越された謝罪に、子供がそんなこと気にするな、と俺は答えた。
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