赤髪対策
今日も今日とて、ナマエはモビーディック号を磨き上げている。
甲板を磨くいつもの仕事の後、洗濯のおかげで白くなったシーツを干して、今日の午後からは第七倉庫の片づけだ。
倉庫には一人きりだが、これはナマエにだけ特別に与えられた仕事らしいので、ナマエにはまったく不満は無い。
何せナマエは日本人で、それほど英語の筆記が得意なわけでもないし、元々ただの一般人だったのだから海の上で役に立つ技能など持ってもいないからだ。
一週間ほどかけて綺麗にしていくようにと命じられているので、ナマエは律儀にその通りにしていた。
本当なら一気に最後までやってしまいたいのだが、食事時間になると誰かがナマエを呼びにくるし、食事の後に倉庫へ戻って掃除をしていると翌日の仕事で体がもたないことくらいはナマエにだって分かっている。
時計が無いから時間が今どのくらいかは分からないが、明り取り用の窓から差し込む日差しはまだ明るいものだったので、誰かが自分を呼びにくるのはまだまだ先だろうなと判断したナマエはせっせと棚を湿った布で擦った。
見る見る綺麗になっていく倉庫を片付けていくのは、なかなかにやりがいのある仕事だ。
置かれた木箱も丁寧に磨いて、端で死んでいる虫の死骸もきちんと片付ける。
害獣の形跡は今のところ見当たらないが、一度だけ見つけた時は初めて見るその姿にうっかり感動してしまった。
「ナマエ、いるかい」
いったん拭き掃除する手を止めて、大きい箱を動かして壁際の埃をせっせと箒で掃いていたナマエは、そんな風に声を掛けられて動きを止めた。
聞き覚えがあり特徴のある口調のその声の主がいる方向を振り返り、はい、と返事をする。
数秒を置いて倉庫の扉が開かれて、ナマエの予想通りの相手がそこから顔を覗かせた。
「もう夕食時間ですか?」
倉庫へ入ってきた相手を見やって、ナマエは軽く首を傾げながらそう尋ねる。
まだ空腹は感じないし、明り取り用の窓から注ぐ光は明るいが、ここはグランドラインだ。もしかしたらナマエの知らないうちに、どこかの不夜島に似た海域にでも入ってしまったのかもしれない。
ナマエの問いかけに、まだ飯食ってから三時間しか経ってねェだろうよい、とマルコが呆れた顔をした。
「もう腹減ってんのかい」
何か持っていたかと自分のポケットに手を入れたマルコに、いえ、とナマエは慌てて否定を投げた。
「最近はよくマルコ隊長が迎えに来るから、今日もそうなのかと思っただけです」
ナマエの言葉の通り、最近のナマエの『迎え』はマルコであることが多かった。
昨日だってそうだったし、一昨日はエースだったが一昨昨日もその前もマルコだった。
ナマエの言葉に、ポケットを探っていた手を止めたマルコが軽く首を傾げる。
「そうだったか?」
「はい。マルコ隊長、俺に何かご用事でしたか」
マルコの様子からしてどうやら呼びに来たわけではないらしいと判断したナマエは、ならば一体何の用だったのだろうかと尋ねながら、とりあえず壁際から掃き出した埃を一箇所に集めた。
そこで手を止めたナマエへ少しばかり近付いて、マルコが口を動かす。
「急に客が来ることになって、厨房の手が足りねえみてェでねい。趣味を満喫してるところ悪いが、向こうの手伝いを任せてェんだよい」
「別に掃除は趣味じゃないんですが」
「いや、趣味だろい」
「違います」
何とも心外なマルコの発言に、ナマエは真っ向からそう否定した。
ナマエは任されているから掃除をしているのであって、片づけを趣味にしたことなど一度も無い。
確かに、暇な時間があいてしまうと何だか時間が勿体無い気がして掃除をしてしまうが。
甲板が綺麗になっていくのを見るのが少し楽しくて、ついつい他のクルーよりも時間をとって広範囲を磨いてしまうことはあるが。
綺麗なはずの壁に汚れを見つけてしまうと拭いてしまうことは、確かにあるが。
やればやるだけ実績となるのだから、ついついやりすぎてしまうことだって仕方が無いのではないだろうか。
そんな風に考えたナマエの前で、お前がそう言うんならそういうことにしといてもいいけどねい、といかにも譲歩した様な発言をして、マルコは軽く肩を竦めた。
「それで、どうだよい」
「あ、はい。行きます」
改めての問いに、ナマエの口からは当然ながら二つ返事が漏れた。
まだ倉庫は片付いていないが、一週間という期間はまだまだ残っている。今日片付けることに拘ることなどない。
とりあえず掃き出した埃だけは片付けようとちりとりと箒を使用し始めたナマエを眺めて、そいつはよかった、とマルコが笑う。
せっせと埃を取って、今日は多分戻ってこれないだろうと判断したナマエがちりとりや箒と共に汚れた布を落としたバケツを手に持つと、マルコはナマエを先導するように倉庫の扉を開けた。
先に廊下へ出て行ったその背中に続いて、ナマエも倉庫から外へ出る。
「そういえば、お客って誰がくるんですか?」
先に歩き出したマルコの隣を歩きながら、ナマエはそんな風に問いかけた。
寄越された言葉に、ああ、と声を漏らしてから、マルコが少しうんざりとした顔をする。
「赤髪の野郎だ。上等の酒を持ってくるってんで、オヤジが向こうの一味何人かも混ぜて酒盛りするってェからねい」
「赤髪……」
寄越された言葉に、ナマエは片目にかけての傷を負った片腕の海賊を思い浮かべた。
なるほど、と納得した様子で小さく頷いたナマエに、マルコの目が少し不思議そうにそちらを見やる。
「何だナマエ、知ってんのかい」
「いえ、知り合いとかじゃないですけど」
落ちた言葉にそう答えて、ナマエは少しばかりその顔に笑みを浮かべた。
赤髪のシャンクスと言えば四皇の一人だ。
元々はロジャー海賊団の見習いで、今は仲間を従える船長で、何より『ワンピース』の主人公であるルフィを守って片腕を無くした海賊だ。
こちらの世界へ来てからまだ一度も会った事のない海賊は大勢いるが、その中でもナマエが一度見てみたかったほうの分類に入る男である。
「シャンクスがくるんですね。見てみたかったから、楽しみです」
そんな風に呟いて笑ったナマエに、マルコは少しばかり眉を寄せた。
「………………ナマエは船室で大人しくしてろい」
「え、どうしてですか」
「赤髪の野郎の覇気に当てられて気絶すんのがオチだよい」
「…………シャンクスの『威圧』が終わったら呼んでください」
マルコの言葉に、そういえば『威圧』していた、と昔に読んだ内容を思い出してナマエが言い放つ。
何故か、横を歩くマルコから帰ってきた返事は『やだよい』だった。
「子供ですか、マルコ隊長」
かわいらしいことこの上ないそれに、ナマエは思わずそんな風に言葉を紡いだ。
いやなもんはいやだ、とまさしく子供のように言い放って、マルコは面白くも無さそうに眉を寄せている。
「ラッキー・ルウの奴も連れてくるらしいから、どうせナマエも厨房に缶詰だよい。諦めて大人しく手伝いしてろい」
「はァ……」
言い放つマルコに、なるほど、とナマエは頷いた。
もしかすると、大食漢なクルーをシャンクスが連れてくると言っているから、ナマエまで宴の準備に借り出されているのかもしれない。きっと他の隊からもたくさんの手伝いがいるのだろう。
だとすれば確かに、宴の間はひたすら料理を用意することに忙しくて、甲板まで出るのはなかなかに難しそうだ。
「わかりました、頑張ります」
ならば少しでも周りの役に立とうと素直に頷いたナマエに、素直だねい、とマルコが少しばかり笑った。
俺はいつだって素直ですよ、と言い返して、辿り着いた場所に掃除道具を片付けてから厨房に向かったナマエは、四番隊しかいない厨房に、一人でこっそり首を傾げることになったのだった。
end
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