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勘違いの話

 憎しみと言うのは、人を蝕むものだ。


 ちらりとすぐそばの壁を磨いている部下を見やり、男の口からもれたのはため息だった。
 ふうと吹いたそれは空気の中で白く凍って、音も無く消えていく。
 男の視線の先で、その視線に気付いた様子のない小柄な青年は、せっせと手に持っている布で壁を擦っている。
 ナマエという名の彼が大将青雉の部下となって、もう三週間が経つ。
 なぜか部屋を美しく保つ事に精力を注いでいる青年のおかげで、現在の青雉の執務室の美しさは一ヶ月前と比べると雲泥の差だ。
 ナマエの手で磨かれた椅子にその巨躯を乗せ、ナマエが磨いた机の上に書類を少し積みながら、やる気を感じさせぬ頬杖をついて、部屋の主はまだ壁を磨いている青年を眺めている。
 いくつか調査をさせたものの、青雉が彼と遭遇した島へどうやってきたのかも分からぬ『身元不明』の青年は、最悪の能力であるといわれている『ヤミヤミの実』の能力者だ。
 海賊に悪用されることの無いよう海軍での保護、と言う名の確保が決まって、三大将のうちの誰かの部下に、となった段階でナマエが指名したのは青雉だった。
 黄猿でもなく赤犬でもなく、ナマエ自身を海軍本部まで無理やり連れてきた青雉を選んだナマエは、赤犬にひどく怯えた様子を見せた。

『……サカズキ大将が戦っているところ、見たことありますよ』

 海の上でそれを見たというのなら、それは赤犬が海賊達を粛清していた時のことだろうと、青雉も黄猿も赤犬自身も考えている。
 そしてちょうど半年程前、赤犬が艦隊を率いていた海賊のほとんどを海の上で焼き殺したことがあった。
 本来ならそれは黄猿の任務で、たまたま遠征の帰りだった赤犬が、邪魔だと言って途中から参戦したのだ。
 逃げた海賊を追いかけて、それを殺すために民間の船も二隻ほど沈めたというのだから、それを聞いた時、青雉はどうしようもないほどぐったりした。
 赤犬の過激さは今に始まったことではない。傷付いた海賊を助けた民間人がいれば、それも悪だと判断し粛清する。いつものことだ。
 けれどもそうして、その絶対的な正義の為に、二隻の船に乗っていた民間人のほとんどが犠牲になった。
 一部は海軍が助けることが出来たと聞いているが、明確な名簿などは無かった。
 正義を背負った海軍に、そしてたやすく船を沈めて見せた大将に、食って掛かる民間人もいなかったから、結局正確な人数すらも分からない。

「……は〜……」

 もう一度ため息を零して、頬杖を点いたままの青雉はその視線をナマエの背中へ注ぐ。
 黄猿の能力を見たことがあると言い、赤犬の戦闘を見たことがあると言い、半年前に家族が死んだと言ったこの青年はきっと、その時の船に乗っていたのだろう。
 あの島へ来た経路が確認できないのは、赤犬が彼の乗っていた船を沈めたからだ。
 そして家族は海に沈んだ。もしかしたら、海王類に食われたという一部の中にいたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。
 ただの推測であり憶測だ。
 けれども、それを確定させるために質問できるほど、青雉も無神経に出来てはいなかった。
 赤犬と二人きりだったとき、目すら合わせようとしていなかったナマエの怯え方を見れば、その異常さはよく分かる。
 ただ悪魔の実を食べてしまったがために海軍に居なくてはならなくなったはずのナマエは、なぜか赤犬をどうしようもなく怖がっている。
 それこそが答えになるというものだ。
 海軍は正義の味方だ。あちこちにそれを全うできない海兵がいるとしても、基本的に民間人は『海軍』を『正しいもの』としてみる。大将であればなおさら。
 赤犬の暴挙の対象だったことが無いのなら、あんな風に怯えるはずが無いのだ。
 憎しみと言うのは、人を蝕む。
 今は怯えているだけの彼も、いつかはその胸にどす黒い感情を芽生えさせてしまうだろう。
 想像するだけで憂鬱な未来に、うんざりとした顔の青雉が手に持っていたペンを放る。
 からんと音を立てたそれに気付いて、真剣に壁と向き合っていたナマエがくるりと振り返った。

「クザン大将、仕事サボっちゃ駄目ですよ」

「やだなァ、サボっちゃいないよ。ほら、ちゃーんと椅子に座ってるでしょ?」

「じゃあちゃんとペン持ってくださいよ。センゴク元帥に怒られますよ」

 明るい声でそう言って、ようやく掃除をひと段落させることにしたらしいナマエが、手に持っていた布を足元のバケツへ落とす。
 ちゃぷりと音を立てたそれを聞きつつ、青雉は少しばかり眉を下げた。
 憎しみと言うのは、深く、強く、人を蝕むものだ。
 ただ怯えるだけのその目もいつかは、暗い憎しみに染まってしまうのだろう。

 今はまだ普通の表情をしている彼を見やって、そいつはやだねェ、と青雉はぼんやり呟いた。



end

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